後藤が先崎と入ったワイン・バーは、クライアントのオフィスビルの近所にある店だった。
後藤が電車を乗り継いで、自社オフィスが入っているビルに辿り着いたのは、店を出てから1時間後。
あと数10分で“明日”になる時刻だった。

正面玄関は閉じられていたので、ビルの脇にある通用口にまわる。
「12階のアネモス・プランニングの者なんすけど、中に入れてもらえますかー?」
ビルの警備会社から配られている入館許可証を示しながら尋ねた後藤は、ビルの警備員に、思いがけない返事をもらうことになった。

「お宅の社長さんがまだいるから、エレベーターは動いてるよ」
「え?」
一つの大仕事が片付いたばかりなのである。
さすがの仕事の鬼も、今日はとっくに帰宅したものと、後藤は思っていた──のだが。

「あのねぇ。ウチのビルの警備は、確かに24時間体制ではあるんですけどね。日に一度はセキュリティ・システムをリセットする決まりになってるんですよ。完徹の申請を出してない日には、できれば早めに帰ってほしいんですけどねぇ」
ぶつぶつ文句を垂れる初老の警備員に頭を下げて通用口を通り、後藤は、アネモス・プランニング社のオフィスが入っている12階にあがった。

12階の南側のフロアを全て借り切っているアネモス・プランニング社のオフィスは、社員が業務を行う事務所、ミーティングルーム、応接室と、幾つかの部屋に区切られている。
そのミーティングルームに続くガラスドアが、室内の灯りを廊下に漏らしていた。
自分の携帯電話を手にすると、後藤は、恐る恐るミーティングルームのドアを開いてみたのである。

パソコン端末からプロジェクターを通して、壁のスクリーンに幾つものグラフが映し出されている。
スクリーンを正面から見ることのできる椅子に腰掛けた瞬が、映し出されているデータを凝視していた。

「ボス……。あのー、俺、忘れ物を取りに来たんすが、警備員がそろそろ出てくれって言ってました」
「え……? ああ、もうこんな時間」
後藤に声を掛けられた瞬は、はっと我に返ったように、スクリーンの左下に表示されている時刻を確認し、それから一つ大きな溜め息を漏らした。

「ごめん。氷河が言っていた件が気になって──データを見直してたんだ」
慌しくパソコンやプロジェクターの電源を落としながら、瞬は、突然現れた新米社員に、小さく苦笑してみせた。

「……あの金髪のボスとは宿命のライバルだそうですね」
「え? ああ、そう。僕は、氷河にだけは負けるわけにはいかない。負けたくない。だから──彼が気付いてることに、僕が気付いてないなんてことは我慢ならない……!」
中学生のような顔をした後藤のボスは、その優しい見掛けによらず、負けず嫌いらしい。
今日は、これまで知らなかったボスの顔を見てばかりだと、後藤は胸中で密かに思った。

「ボスが見落としていて気付いてないんじゃなく、データが完璧じゃないせいかもしれないっすよ。俺たち、明日から大車輪で頑張りますから、ボスは今日はもう帰った方がよくないすか。ボスは、朝もいつも早いし……ちゃんと寝てるんすか?」
「ありがとう。自分の限界はちゃんと心得てるよ」
「…………」

氷河のことさえ絡まなければ、瞬はやはり人当たりのいい上司だった。
今はまだほとんど戦力にもならない新米社員の忠告を素直に聞き、礼を言ってみせる社長に、後藤は切ない眼差しを向けることになった。

「何つーか……ボスなら、もっと楽な仕事を選ぶこともできるんじゃないすか? 大企業の管理職とか、毎日こんなに仕事に追われずに済む、もっと優雅な──」
「仕事に追われて? そんなふうに見えるの?」
「見えるっす。ワーカーホリックつーんすか、仕事中毒」
「そんなつもりはないんだけど……。そうだね、生きていくためだけなら、もっと楽な方法はあるのかもしれないね」

脇に置いていた上着を手に取り、瞬は呟くようにそう言った。
が、すぐに顔をあげて断言する。
「でも、僕は、仕事を楽しんでるつもりなんだ。きついのは確かだけど」

瞬にそう言われてしまっては、後藤にはもう、反論の言葉は思いつかなかった。






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