「氷河……!」
それから半時はんとき後。
氷河に呼び出された瞬が、転がるようにして、氷河の執務室である御用部屋の隣室に駆けてきた。

藩の定小紋を染め抜いた藤色の裃を身に着け、まだ前髪の残る姿は、とても藩校で秀才の名をほしいままにしていた俊英には見えない。
むしろ、幼いという形容が似つかわしいその様子に、氷河は暗澹たる気分になった。
これまでは、その姿を目にするたびに、微笑ましいものを感じていられたというのに。

「よかった。お城にあがって勤めるようになったら、以前のように頻繁に氷河に会うことはできないのかと心配してたんです」
すとんと弾むように氷河の前に座ると、瞬は、氷河がやがて言い渡すことになっている用件も知らずに、心安げに氷河に語りかけてきた。
「父はずっと江戸詰めだし、殿のご帰国と入れ違いに兄は江戸に行ってしまったし、少し心細かったから」

「…………」
氷河はと言えば、いつものように、瞬の前で表情を和らげることもできず、厳しい顔を保ったままだった。
どんな顔をして瞬に“主命”を伝えればいいのかが、氷河にはわからなかったのだ。

「あ……」
道場や藩校では身分や家柄にとらわれずに親しんできたとはいえ、城内では、表目付兼開拓奉行という肩書きを持つ氷河の方が、瞬よりはるかに高い地位にある。
氷河の険しい眼差しに気付くと、瞬はその事実を思い出し、すぐに居住まいを正して、今更ながらにではあったが、氷河に一礼した。
「お奉行様、お呼びと伺い、参上いたしました」

「…………」
そんな他人行儀を示されても、今回ばかりは、形式通りに速やかに主命を伝えることはできない。
氷河は、瞬の前で固く目を閉じた。
そして、意を決して、その目を開く。

「どうか……?」
氷河の前には、どこか気遣わしげな色をたたえた、邪気のない瞬の瞳があった。

「瞬……」
「はい!」
苗字や敬称つきで呼ばれてしまったらどうしようかと不安に思っていた瞬は、氷河に以前の通りに名前で呼ばれたことに安堵して、ほっと小さく吐息した。
もっとも、その安堵の気持ちも表情も、氷河から伝えられた主命のせいで、まもなく固く強張ることになってしまったのだが。

「殿がおまえを見初められたそうだ」
「え?」
「おまえは、ひと月後に、殿の寝所にはべることになる」
「あの?」
「俺は、それまでに、おまえに──ねやでのことを教えるようにと言いつかった」
「氷河──」
「明日、身の回りの準備をして、城下の下屋敷に来るように。江戸のご家老には、殿の方から話がいっているはずだ」
「ちょ……ちょっと待って。待ってください。氷河、これは何の冗談?」

冗談だったなら、どれほどいいか──そう叫んでしまいたい気持ちを抑え、氷河は、抑揚のない声で、再度瞬に告げた。
「主命だ。従うのが武士。まして、おまえは──」

逆らうわけにはいかないはず、だった。
氷河と違って瞬は、代々家老職を務めてきた大家の出である。
瞬には、その家を守る義務がある。
主君に逆らって、家を取り潰しになどできるわけがない。
瞬が主命に背けば、瞬の家に連なる一族を路頭に迷わせることになるかもしれないのだ。

「でも……でも、氷河、僕は……」
「いいな。どうするのがおまえにとって最良の道かを慎重に考え、決断するように」
氷河が瞬に言えるのは、ただそれだけだった。






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