逃げてくれと、氷河は本心では願っていた。
家を捨てるのは無理かもしれないが、病を得たという口実でも設けて、おぞましい主命のために用意された屋敷になど来ないでくれと、氷河は心底から思っていた。
江戸家老として江戸にいる父の許に身を寄せ、執り成しを頼むという手もある。

ともかく氷河は、瞬が翌日、城下の屋敷に姿を現さないことを期待していた。
が、翌日、瞬は、馬鹿正直に、指示された下屋敷にやってきてしまったのである。


午前の執務を終えた氷河が問題の下屋敷に赴くと、上総介に見張りでも言いつかったのか、書記局での同僚がなぜかそこにいた。
氷河の推挙で今の役職に就いた男で、形式的には氷河の部下ということになるのだが、氷河より数歳年長ということもあって、友人付き合いをしている同輩だった。

その同輩が、複雑そうな面持ちをして、氷河に話しかけてくる。
「来てるぞ。とんでもない役目を仰せつかったものだと同情していたが、殿が目をつけるだけあって、花のような美少年。これでは、務めを終えたあとに手放すのが辛いことになりそうだな」

瞬が来ていることを知らされて、氷河はおもむろに顔を歪めた。
暗く絶望的な気分が、瞬が控えている座敷に向かう間に、怒りへと変わっていく。

「どうして来たんだ! 病とでも偽って、お役御免を願い出れば、殿とて無理強いはできないはずだ!」
座敷の障子を開けるなり、氷河は瞬を怒鳴りつけた。
そのために──逃げ道を画策する時間に充てさせるべく、氷河は瞬に一晩の猶予を与えたつもりだったのだ。

だというのに、瞬は、のこのこと、この伏魔殿にやってきて、
「昨日までぴんぴんしていたのに、仮病なんか使ったら不自然です。殿のご勘気に触れたら、家の者に迷惑がかかります」
青白い頬をして、武士の鑑ともいうべき白々しい言葉を氷河に告げるのだ。

これが『家制度』、『武家社会』、そして、『封建制』というものなのだろうか。
長子でもなく、故に当然家督を継ぐわけでもない瞬をも、これほどまでに縛りつけるもの。
それがいかなる理不尽でも、目上の者の命令には唯々として従うことが美徳とされる世界。
氷河は、腰に差している大小の刀を──武士を武士たらしめているものを──叩き捨てたい気分になった。

「瞬……!」
「よろしくご教示ください」
「瞬っ! おまえにそんなことができるわけがないだろう!」

できないのではない。
したくないのだ。
なぜその思いが瞬に伝わらないのかと、抑えがたい憤りに支配されつつ、氷河は瞬の腕を掴みあげた。

「瞬、今すぐ、ここを出ろ。俺に無体をされて、身の危険を覚えたとでも言えば、そう不自然には思われないだろう。そのまま寝込んで、しばらく登城を控えるんだ。1年、何とか逃げおおせれば、殿はまた江戸詰めで、国元を離れる!」

「そんなことをしたら、氷河が殿のお叱りを受けてしまいます」
「俺のことはどうでもいい。俺は、おまえと違って、家族も守るべき家もない。処罰を受けても俺ひとりだけのことで済む。俺のことを気にかける必要はない」
「ぜんぶ氷河に負わせて、僕だけ逃げるなんてできません」
「おまえが意に染まぬことをされるより、ずっといい」
「ご命令に従ってください」

「瞬、頼むから……!」
氷河の怒声は、懇願の響きを帯び始めていた。

「僕はどうすればいいの。ちゃんと覚えます」
そして、瞬の声は、既に覚悟を決めた者のそれのように、落ち着き払っていた。






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