そんなふうにして、ひと月が過ぎていった。
明日には、城にあがり、他の男の手に瞬を委ねなければならない。
自分は本当にそんなことをするのだろうか──と、氷河は、その前夜になってもまだ迷っていた。


氷河がその夜、瞬の部屋に向かったのは、もしかしたら、その答えを見付けようとしてのことだったかもしれない。
あるいは、この一ヶ月間の無体を瞬に詫びるためか、逃亡を促すためか、それとも、最後に真実の思いを打ち明けようとしたのか──それは氷河自身にもわからなかった。
ただ、このまま瞬と別れるわけにはいかないと、氷河は、そう思ったのである。

「──」
なぜか名前を呼ぶことがはばかられて、氷河は無言で、瞬にあてがわれた居室の障子を開けた。

瞬は、白い装束を身にまとって、文机に向かっていた。
灯りのせいで白く見える横顔からは、ひと月前にはその印象のほとんどを占めていた幼さが、すっかり消え失せている。
瞬がいったい何を書いているのかは、その白い裃で、問わずともわかった。

「何を書いている」
それでも、氷河は尋ねた。
そんなものを、瞬が書いていていいはずがないと思いたいがために。

「あ……」
氷河の期待は空しく、それは、彼が察した通りのものだったが。

瞬の手から奪い取るようにして、それ・・に目を走らせると、そこには、達筆というよりは丁寧な文字で、何の役にも立てぬうちに主君の意に反して死を選ぶことへの詫びの言葉が したためられていた。
氷河には落ち度のないこと、主命を利用して以前からの自分の思いを叶えようとしたこと、氷河は自分の邪恋に利用されただけなので咎めるにあたわぬこと、そして、万一氷河を咎めることがあった際に藩と藩主が被るであろう損失 等々のことが、いっそ潔い文章で書き記されていたのである。
瞬の遺書には、“家”のことなど、どこにも書かれていなかった。

「瞬……」
それを読み終えてから、自分の前で項垂れるように俯いている瞬の名を、氷河は呼んだ。
氷河は、今になって気付いたのである。

氷河は、今の今まで、瞬が守ろうとしているものは、彼を大家の子弟たらしめている“家”なのだと思っていた。
だが、そうではなかったのだ。
瞬が守ろうとしなくても、“家”を必要とし維持しようと努める者は、他に幾らでもいるのだ。
瞬を生み育んだ瞬の家の者たちは、誰もがその才覚を有している。

そうではなく──。
瞬が守ろうとしていたものは、守るべき家などないと自慢げに・・・・豪語していた愚かな男の人生の方だったのだ。

「最初は……それが氷河のためになるのなら、大人しく殿のところに行こうと思ってた……。でも……」
この強くて小さな武士は、平気で氷河に涙を見せる。
微かに首を横に振り、その涙を散らして、瞬は氷河に悲鳴のように訴えてきた。
「僕、殿のことは尊敬しています。ご立派な方だとも思う。でも、僕にあんなことしていいのは氷河だけだ!」

「瞬……」
武士としての人生を全うしようとしたら、瞬のその言葉は氷河への死刑宣告にも等しいものだった。
だが、一人の人間として聞くならば、それは、『この天下をおまえに与えよう』と言われることよりも、氷河を有頂天にするものだったのである。






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