瞬は結局、しばらくの間、運び込まれた病院に入院することになった。
見た目は華奢でも、聖闘士の身体である。打撲や骨の状態は大したことにはなっていないようだったが、数日をかけて脳波の検査をすることになったのである。
星矢たちは仲間を一人欠いて城戸邸に戻ることになった。

「あー、あれだ。氷河、無理矢理でもいいから、瞬をヤっちまえ。そうすりゃ思い出すだろ」
「星矢、くだらん三文小説の読みすぎだ。一生記憶が戻らないかもしれないんだぞ。そうなったら、氷河は瞬にとって一生犯罪者だ」
星矢が三文小説など読むはずがない。
星矢が読んだのは、三文コミックだった。

「だいいち、激しい性交が原因で一過性全健忘になった症例ならいくらでもあるが、忘れていたものを思い出した話など聞いたこともない」
「…………」
紫龍の指摘を受けて、星矢がしょんぼりと、ラウンジの隅にある肘掛け椅子に身体を沈み込ませる。

ここで、こうなったのはおまえのせいではないと言っても、その慰めは全く意味を為さない。
だから紫龍は、星矢を慰めることも責めることもしなかった。
星矢が責任を感じているのはわかるが、実際にこういうことになってしまった今、問題は責任の所在ではなく、これからどうするのかの方だったのだ。

「どうする、氷河」
無論紫龍は、医師でもない氷河に、今後の治療方針などを尋ねたわけではない。
紫龍が氷河に尋ねたのは、これからの瞬の看病や、万一敵が現れた時の体制をどうするかということだった。
そのつもりだった。
──が。

それまでほとんど無言だった氷河が、更に数分の長い沈黙のあと、低い声で、思いがけないことを言い出したのである。
「俺は、瞬に自分が聖闘士だったということを思い出させたくない」
「なに……?」
「いい機会だ。これを機に、瞬を闘いの場から遠ざけようと思う」
「おい、氷河!」

すっかり気落ちして肘掛け椅子の上で膝を丸めていた星矢が、氷河のその言葉に弾かれたように身を起こす。
氷河の考えに反対するために口を開きかけた星矢を制したのは紫龍だった。
「それは、瞬に記憶を取り戻させたくないということか」
「──そうだ」
「これまでのことも、おまえとのことも忘れていいと?」
「そうすれば、瞬は闘わずに済むようになる。人を傷付けて泣くこともなくなる。瞬はいつも闘いのたびにつらそうにしていた。聖闘士でなくなれば、もうそんな思いを味あわずに済むようになる。瞬は幸せになれる」

「それはどうかな」
かつて瞬に聖衣を着せたくないと言っていたこともある紫龍から賛同を得られないことを、氷河は意外に感じたらしい。
ゆっくりと怪訝そうな顔をあげた氷河に、紫龍は、動きのない水のような視線を向けた。
他人の心底を探ろうとする時の紫龍の癖だった。

「確かに瞬が聖闘士でなくなれば、瞬は人を傷付けずに済むようになるだろう。おまえも、人を傷付けることで傷付く瞬を救ってやれない己れの無力に歯噛みすることはなくなる。だが、瞬はそれでもこれまで闘い続けてきた。おまえは、自分が楽になりたいだけじゃないのか」
「違う」

氷河がもし、気色ばんだ声音でそう反論してきていたら、紫龍は、やはり図星かと、彼を嘲笑っていたことだろう。
だが、氷河の否定の返答は至って冷静で、痛いところを突かれた人間のそれではなかった。
それで、紫龍は気付いた──思い出した。
瞬のために自分が苦しむことは、氷河にとってはむしろ望むところの行為なのだということを。
つまり、氷河は、本当にそうすることが瞬のためになると考えて、そんな提案をしてきたのだ。

紫龍は、一時、言葉を失った。






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