その日、一度門を出た氷河がすぐに屋敷にとって返すことになったのは、どんよりと曇っていた夕暮れの空からぽつぽつと雨が降ってきたからだった。
正門から少し離れたところに、妙に派手な色の前簾を供えた牛車が潜むように停まっている。
それは大臣や親王しか使用が許されていない檳榔庇車びろうびさしのくるまで、すぐに左大臣家の牛車と知れた。

なぜそんなものがそこにあるのかと奇妙に思いつつも、下馬せずにその脇を通り抜けた氷河は、まるで辺りをはばかるように門を出てきた瞬と、その瞬の姿を認めて牛車の乗り口の簾を上げた従者の所作に気付いて、眉を吊り上げた。


「どういうつもりだっ!」
腕を掴みあげるようにして瞬を門内に引き戻した氷河は、瞬を彼の部屋に押し込め、頭から怒鳴りつけた。
瞬はその場にへたり込み、両手を床について項垂れている。
「瞬っ!」

上皇の、いわば下掛しもがかりの世話をして位人臣を極めている悪左府を、当然のことながら氷河は蛇蝎のごとく嫌っていた。
瞬もそのことは知っているはずである。
その品性下劣な男からの迎え――。
瞬はおそらく意味もわからずに、ただ血のつながった叔父からの招きに応じようとしただけなのだと、氷河は思おうとした。
それ以上の意味があるはずがないと、彼は思いたかったのである。

しかし、氷河に責められた瞬が、顔を伏せたまま力無く告げた言葉は、氷河の期待を裏切るものだった。
「僕が上皇様のところにあがれば、氷河を近衛少将に推挙してくれるって……。僕、初めて氷河のためになることができ――」

期待を裏切られたことを知った氷河は、瞬の言葉を最後まで聞かなかった。
「悪左府の差配で上皇のところに行くということの意味がわかっているのかっ。身売りをするということだぞ、それは!」
「…………」
瞬が無言でいることが、氷河の苛立ちをいや増しにした。
「仮にも藤原嫡流の――いや、俺の許婚いいなずけが!」

氷河はそう言うが、その立場が――氷河の名ばかりの許婚という立場が――瞬はつらかったのである。
氷河の怒りに燃えた顔を見るのが恐ろしくて 顔を伏せたまま、瞬は懸命に力をふりしぼり、彼に弁解をした。
「氷河のためだけじゃなく……これまで、何の得にもならないのに、僕を慈しんでくださった義父上様や義母様へのご恩返しになるのなら、僕は喜んで――」
「喜んで、あんな色情狂共のところに行くというのかっ!」

「……僕は、だって、男子として家を盛り立てていくこともできないし、姫として氷河の妻になることもできない。この家にいたって、氷河の側にいたって、何の役にも立たない人間だもの。それくらい……」
「それくらい !? “それくらい”のことか、これが !? 」

氷河の剣幕に恐れをなしつつ、だが、実は、瞬には彼の激昂の訳がよくわかっていなかったのである。
自分は、氷河にとって、妻として迎えることも家のために働くこともできない厄介者である。
そして、氷河には野心がある。

瞬の前では滅多に口にすることはなかったが、悪左府などが幅をきかせている現在の朝廷を氷河が嫌悪していること、その改革を望んでいることを、瞬は知っていた。
その望みを叶えることは、武力だけではできない――武力ではできない。地位が必要なのである。
瞬はそれを得る好機が巡ってきたと、叔父からの文を見た時に思ったのだ。






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