「氷河……でも、僕は――」 「あの悪左府が何を言ったのかは知らないが。あれは人との約定を守るような男じゃない。おまえは世間知らずだから、あんな男の口車に簡単に乗せられて――」 拗ねた子供をなだめるような氷河の口調に、瞬は立つ瀬を失ったようなみじめな気持ちにさせられた。 「世間知らずでもっ……! じゃ……じゃあ、氷河は何なのっ! 朝廷に影響力のある有力な家の姫君ばっかり選んで通って、氷河が姫君たちを好いているっていうのなら、僕だって我慢できるのに! 我慢するのに……!」 何よりも、瞬はそれがつらかったのだ。 そして、氷河に彼の望むものを何一つ与えることのできない自分の無力が。 「今は、家柄なんて、出世するには何の関係もないんだって! 上皇様に気に入られれば、鶴の一声で、地位も領地も思いのままだって! 氷河がそんなに地位や権力が欲しいのなら、僕がそれを氷河にあげるっ! 叔父上は、僕ならきっと上皇様の気に入るって言ってた!」 「……あの色気違いとどこで会った。あの、ちょっとでも気に入った者を見付けると、すぐに寝所に引き込むような奴と、どこで――」 瞬の声音が気色ばむのとは対照的に、氷河の口調が低く抑揚のないものに変わる。 それは氷河の怒りが和らいできたのではなく、逆に大きく深くなったからなのだということを、瞬は知っていた。 「そんなこと、どうでもいいでしょう。叔父は、氷河に近衛少将の官職を――」 瞬はもちろん、悪左府に会ったことなどなかった。 氷河が言うように、世間知らずの瞬は、叔父からきたたった一通の文に希望を見い出して――それは、瞬にとっては、確かに希望だった――彼の提案を受けることにしたのである。 氷河は、しかし、誤解したらしい。 眉を吊り上げた彼は、瞬の右の腕を鷲掴みに掴み、瞬を正面から睨みつけた。 瞬は、彼にぶたれると思ったのである。 氷河がそんなことをするはずはなかったが、それでも、瞬がそう怖れずにはいられないほど、氷河の怒りは圧倒的であるように、瞬には思われた。 氷河は瞬に手をあげるようなことはしなかった。 そうする代わりに、彼は瞬の身体を床に引き倒して直衣を引き剥ぎ、 氷河の意図がわからず、瞬は息を飲んだのである。 瞬の当惑を無視して、氷河は瞬の両の肩を床に押しつけ、無言で瞬の胸を凝視した。 「ひょう……が……?」 「確かに、上皇の気には入るだろう。おまえは美しい。その上、鳥羽殿にいるのは、女も男も見境のない奴等だ。祖父と孫で、平気で一人の女を共有しているような奴等……!」 吐き出すように上皇たちの不品行を非難する氷河を見て、瞬は初めて、自分のしようとしたことがもたらす結果を、自分は思い違えていたのかもしれないという不安に囚われた。 役に立たない許婚によって地位を得た氷河は、そのことで名ばかりの許婚に感謝するか、あるいは彼の許婚でなくなった者を忘れるか――瞬は、それまで、自分の将来として、その二つの結末をしか考えていなかった。 だが、そうではないらしい。 瞬がそれをすることによって、氷河は彼の許婚を軽蔑し憎むようになる――のだ。 氷河に蔑まれ嫌われている自分――自らのそんな未来を思うだけで、瞬は切なく泣きたい気分になった。 どちらにしても氷河は、瞬にその計画を実行に移させるつもりはないようだった。 これまで瞬が見たこともないほど冷たい氷河の視線が、瞬に注がれていた。 「だが、この綺麗な肌に、目を背けたくなるような大きな傷がついていたらどうかな。あるいは……死人だったら」 いつのまにか、氷河の手には鋭い光をたたえた小刀が握られていた。 切っ先が、瞬の方を向いている。 「氷河……」 氷河の、背筋が凍りつくほど整った面差しが、憎悪をたたえている。 自分がしようとしたことは、それほどまでに氷河の怒りを誘うようなことだったのだろうかと、瞬は今になって迷い始めていた。 その答えに辿り着く前に、だが瞬は、それ以上氷河の冷たい瞳の色を見ていることに耐えられなくなって、固く目を閉じたのである。 ――目を閉じると、覚悟ができた。 それが氷河の望みなら死んでもいいと、瞬は思った。 そうすれば、少なくとも自分が無力だという絶望からは逃れられる――。 |