氷河が手にした小刀は、瞬の胸に触れることはなかった。
代わりに、呻くような声が瞬の上に降ってくる。
「おまえを守るために力が必要なんじゃないか。あんな奴等におまえが汚されないために、あの上皇と悪左府に対抗できるだけの力が――」
小刀で胸を突かれる代わりに、瞬は氷河に抱きしめられていた。
床に横たえられた瞬の左頬に、氷河の唇が触れる。

「悪左府は――先に俺に話を持ってきたんだ。おまえを上皇に献上して、上皇の機嫌をとりたいから手を貸せと。俺は取り合わなかった。だが奴は諦めようとしなくて、あまりしつこいから、俺はつい、おまえは女じゃないと口走ってしまったんだ。……迂闊だった。あいつらが男も女も構わない色情狂だということを、すっかり失念していた」

瞬にはそれは初めて聞く話だった。
いったいそれはいつのことなのだろう――?
ともかく、それで、悪左府が瞬の秘密を知っていた事情だけはわかった。

「つっぱね続けていたら、奴は俺を脅迫してきた。俺に謀反の意志ありと上皇に奏上すると。我が家が公家でありながら侍たちを養っているのはそのためだとな」
「そんな……」
そんな言い掛かりがあるだろうか。
豊かな荘園を持たないこの家が、どういう手段で家の存続を図っているか、それは誰もが知っているはずのことである。

「俺は、それでも、この家の存続などどうでもいいと――おまえを手放すくらいなら、いっそこの手で殺してやると言ったんだ。あの下種野郎、それで引き下がったようだったのに――」
まさか直接瞬に当たってくるとは、氷河は考えてもいなかった。
さすがに、『腹黒く、よろずにきわどき人』と評されるだけあって、悪左府は狡猾である。
瞬の立場の弱さを巧みに衝いてくる。

だが、互いに大切な人を守ろうとしている瞬と自分の心が、そんな狡猾に負けてしまっていいものだろうか。
氷河にはそんなことは許せなかった。
「おまえが上皇の寵愛や贅沢を望むというのなら、止めはしない。だが、俺のためなら、やめてくれ。頼む」

瞬の耳許で、氷河の唇が苦しげに懇願する。
瞬は、心臓を鷲掴みにされるような痛みを、その胸に覚えた。
氷河がそんな卑劣な脅しにさらされていたことを、瞬は知らずにいた。

「氷河……は、僕を――役に立たない許婚の僕を邪魔に思っていたんじゃないの……」
氷河が他家の姫たちの許に通う夜を、どれだけ切なく苦しい思いで耐えていたことか。
あの夜たちが、瞬の中で、瞬自身を、無意味で無力な存在に変えていったのだ。

「俺は、あの悪左府と同じことをしたくなかっただけだ。おまえに綺麗なままでいてほしかっただけ――」

だが、そうではなかった――少なくとも瞬は氷河にとって、他の何かを犠牲にしても守るだけの価値のあるものだった――のだろうか?

「おまえは知らないだろうが、あの悪左府は、自分や上皇と寵童たちとの汚らわしい情交の様子を日記に記して、公家共で回し読みしている。まともじゃないんだ、あいつらは。そんな奴等のところに行ったら、おまえまでおかしくなる」
そういうものがあることは、瞬も知っていた。
自分やこの家の者たちが普通と思っているような倫理観を、叔父が持ち合わせていないことは、瞬もわかっていた。

「知ってる」
「知って? なぜおまえが」
「叔父の乱行や奇行の噂は、この屋敷から出なくたって、家の者たちがいつも話してるもの」
そんなつまらない噂話を瞬の耳に届くところでしている郎党たちの無用心に、氷河は舌打ちをした――しかけた。
が、彼はそうすることができなかった――それどころではなくなったのである。
瞬が、ありえない言葉を、その唇にのぼらせたせいで。

「それで僕、知ったんだもの。姫でなくても、僕は氷河と睦み合えるのかもしれないって……」
「しゅ……」
言葉を失ってしまった氷河に、瞬が頬を染め、今にも泣きだしそうな目を向けてくる。
だが、瞬は、すぐに氷河から顔を背けてしまった。
その横顔と、瞬の細く白いうなじが視界に入った途端、氷河はふいに激しい喉の渇きを自覚したのである。






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