惰弱派宣言

〜 渚月舞夢さんに捧ぐ 〜







「どうぞ、召しあがれ」
そう言って にっこりと、瞬は、まるで無邪気に咲く白い花のように笑った。

場所は城戸邸・ダイニングルーム、時刻は正午を少しまわった頃。
氷河の目の前にはなぜか、目玉焼きが一つ載った皿が一枚だけ鎮座ましましている。
いつもなら、氷河の定位置は、長テーブルの側面の席だったのだが、今日はなぜかいちばんの上座――いわゆる、お誕生日席――に、氷河はほとんど強制的に着席させられていた。

氷河から見て右手に瞬と星矢、左手には一輝と紫龍がいて、彼等はそれぞれ向かい合い 椅子には腰掛けずに起立した状態で、氷河の動向を見守って(?)いる。
10人掛けのダイニングテーブルの上にあるものは、くだんの目玉焼きの皿の他に、箸が一膳、ナイフとフォーク、そして、いつもは食卓に置かれることのない調味料ボトルのスタンドのみ。
2本のボトルには、どうやらウスターソースと醤油が入っているようだった。

それはともかく、向かい合う瞬と星矢、一輝と紫龍の様子が、どこかおかしい。尋常でない。
小宇宙を使う戦闘を商売としているだけに、氷河には、それが敏感に――というより、否が応でも――感じとれてしまう。
氷河と彼の前に置かれた目玉焼きの上に交互に視線を走らせている彼の仲間たちは、なぜか全身に激しい緊張感をみなぎらせており、その異様な雰囲気に、氷河は居心地の悪さを感じないわけにはいかなかった。

「何なんだ、いったい」
氷河は、昼食の準備ができたと言われて、この場にやってきたのである。
この目玉焼きが本日の昼食のメインディッシュなのだとしたら、それは平素に比べて質素すぎるメニューだった。

氷河が尋ねると、星矢が、何かに急きたてられているような早口で、それが何なのかを説明する。
「何って、見りゃわかるだろ。瞬がおまえのために手料理に挑戦したんだよ」
「手料理……? 目玉焼きが一つあるだけのような気がするが」
氷河のぼやきに、瞬の兄は眉を吊りあげる。
「貴様のために生まれて初めて厨房に立った瞬に、フランス料理を要求する気か、貴様はっ!」
「瞬は、この目玉焼きを作るために、卵を6個も犠牲(スクランブルエッグ)にしたんだぞ。おまえは、瞬のその努力を足蹴にするような冷酷な男だったのか」
「…………」

瞬の兄だけならまだしも紫龍にまでそういわれてしまっては、氷河としても、この豪勢な昼食に文句をつけるわけにはいかなかった。
否、瞬の兄や紫龍に何を言われても、氷河は平気の平左だったのだが、他ならぬ瞬が、自らの手料理の前に着席している男に ひどく不安そうな眼差しを向けていて、氷河はそればかりは無視するわけにはいかなかったのである。
たとえ毒が入っていても、氷河はその目玉焼きを食さなければならなかった。

「……文句はない。目玉焼きだけとは、実に斬新な食事――あ、いや、卵は完全食品だというし、これで充分なんだろうな――うん。充分なのに違いない」
自身に言いきかせるようにそう言ってから、氷河は、その斬新な昼食を食する決意をしたのである。

氷河の母は料理が上手かった。
シベリアに修行に向かう時には、ビタミンBやビタミンC補給のために生肉を常食とすることすら覚悟していたのだが、出てきた肉はしっかり加熱されていた。
聖闘士になって帰国してからは、城戸邸で雇われている調理師・栄養士の世話になり、氷河はその食事内容に不満を感じたことはない。

そういう状況であったので、氷河は当然のことながら、これまでただの一度も 瞬に手料理などというものを求めたことも期待したこともなかった。
瞬にして欲しいことは、他にあったのだ。
が。
求めたことも期待したこともない――とはいえ、だからといって、瞬が手ずから作ってくれた料理を無碍にすることができるわけもない。
文句をつけるなど言語道断である。

両肩に重苦しい空気の重みを感じつつ、氷河は瞬の手料理を食するために、右の手を醤油差しに伸ばした。
瞬が微かに眉根を寄せる。
それに気付かず、氷河は、目玉焼きの目玉の周りに醤油でぐるりと黒い円を描き、その後、手にしたそれを元の場所に戻した。

そうして、瞬の手料理を味わうべく、氷河が居住まいを正して箸を手に取った時、彼の身の上に、真夏の怪奇現象も吹き飛ぶほどの椿事が降りかかってきたのである。






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