それは、まさに椿事だった。
ともに天をいただかず――氷河にとって不倶戴天の敵であり、瞬を間に置いて決して打ち解けあうことなど不可能であるはずの一輝が、突然、
「同志よ!」
と叫ぶなり、氷河の両手をがしっと握りしめてきたのだから。

氷河は、正直言って、ぞっとしたのである。
一輝の瞳は爛々と輝き、それはまるで地獄の底から這い上がってきた不吉な悪鬼のようだった(そう氷河には見えた)。
氷河はすぐさま一輝の手を振り払い、地獄の脅威から逃れるべく、視線を瞬のいる方へとめぐらせたのである。
そこにあった瞬の瞳は、兄とは対照的に暗く沈み、どこか悲しげですらあった――理由は、わからなかったが。

「氷河、お醤油なの? ソースじゃないの?」
この非常にして異常な事態に、瞬はいったいなぜ そんなどうでもいいことを訊いてくるのか――。
怪訝に思いつつ、氷河は、だが、瞬が尋ねてきたことに律儀に答えを返した。
「普通そうだろう? 目玉焼きには醤油。ソースなんぞかけたりしたら、せっかくのおまえの手料理が不味くなるじゃないか」

その返答を聞いた途端、瞬はがっくりと両の肩を落とし、地獄の悪鬼は一層活気づいた。
「その通りだ! 氷河、俺は今まで貴様のことを、知性もなければ節操もなく、礼儀も遠慮も知らない無風流な毛唐だと思っていたんだが、貴様は本当は侘び寂びのわかる粋な日本人だったのだな!」

氷河がはたして、瞬の兄にそういう言葉で持ち上げられて喜ぶことができるものだろうか。
――などと、遠回しな反語を使うまでもない。
氷河は一輝の賞賛の言葉に、ただ不気味さのみを覚えたのである。
そんな氷河の気も知らず(知っている可能性も否定できないが)、一輝は我が意を得たりと言わんばかりの顔をして、瞬と星矢のいる方を振り返った。

「どうだ、おまえら。年長者の言うことは聞くもんだぞ。経験に裏打ちされた貴重な意見。目玉焼きには醤油!」
彼の弟たちに得意げに言い募る一輝の手は、氷河の肩に置かれている。
「目玉焼きにソースなんて、所詮、赤いウインナをタコだのカニだのにして食いたがる お子様の味覚なんだ」
言われた年少組二人は不服そうに口をとがらせ、一輝ではなく氷河に、恨めしそうな目を向けてきた。

「いったい……」
何がどうなっているのか。
氷河はとりあえず、自分の肩の上にある一輝の手を払いのけ、その場で最も傍観者的表情をしている紫龍に、現状の説明を求めてみたのである。
紫龍が僅かに肩をすくめながら、氷河のご要望に応える。

「つまり、目玉焼きにソースか醤油かで論争していたんだ」
「なに……?」
「俺と一輝が醤油派で、瞬と星矢がソース派。どこまでいっても意見は平行線なんで、おまえに判定を委ねようということになってな。たった今、おまえは醤油派陣営に組み込まれた。3対2で醤油派の勝ちだ」
「…………」

それはいったい勝ち負けを判断できるような問題なのだろうか。
アテナの聖闘士ともあろうものが、そんなことで争っていていいのだろうか。
氷河にしては至極常識的なことを考えて、彼はまず、自らの仲間たちのノンキさに呆れ果てた。
次に、自分の嗜好が一輝と同じだということに、氷河は死ぬほど不愉快な気分になった。
が、彼は、それらの思考や感情にも関わらず、『目玉焼きに醤油は日本人の常識である』という認識を覆すことはしなかったのである。

“常識”は、それを常識と思う人間にとってシリアスな問題にはなり得ない。
なぜなら、それはただの常識にすぎないから。
ゆえに氷河は、日本人という存在の根幹に関わるその問題を非常に軽く考えて、瞬の目の前でぺろりと醤油のかかった目玉焼きを平らげた。

醤油がかかっていようがソースがかかっていようが、これは瞬の手料理には違いない。
となれば、自分はこれを食して、その味を褒めなければならない。
それもまた氷河にとっては至上義務にも似た常識で、極めて常識的な人間である彼は、彼の常識にのっとった行動を実行に移した。

「うまいぞ、瞬」
「お醤油が?」
氷河の常識的行動に対して、瞬が、どう考えても皮肉としか思えない言葉を返してくる。
「瞬、何を――」
瞬らしくないその皮肉に 氷河は我知らず眉をひそめたのだが、それでも瞬は瞬らしくない言動をやめようとはしなかった。
「なんてったって、そのお醤油は、某有名老舗店が豆と塩と水とを厳選して、その上 上等の杉樽で天然醸造した超高級醤油だそうだから」

『目玉焼きには醤油』
自分の常識が瞬の機嫌を損ねたことに、瞬にそこまで言われて初めて、氷河は自覚することになったのである。

「あっち行こ、星矢。こんな変な人たちと一緒にいると、僕たちまでおかしくなっちゃうよ」
「氷河の奴、半分毛唐のくせに、ソースより醤油を選ぶなんて、期待を裏切る奴だよな〜。瞬、あんな奴とは手を切った方がいいぞ。食生活の不一致は不幸のもとだ」
目玉焼きにはソース派の2人が、言いたいことを言いながらダイニングルームを出ていく。
氷河は、空になった皿の前で、ただ呆然とすることしかできなかった。






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