瞬は、星矢が言った通りに、ラウンジで数日前に搬入されたばかりの新品の長椅子に座り、相変わらずページの進まない詩集に視線を落としていた。
問答無用でその隣りの場所に陣取った氷河は、無言で席を立とうとする瞬を引きとめ、噛みつくような勢いで彼の用件に入った。

「瞬。人はなぜ寝言を言うのか、その理由を知っているか」
「え?」
氷河の話題の振り方の唐突さに呆れ驚き、瞬がその瞳を見開く。
が、氷河は、瞬のそんな反応には委細構わず、彼が訴えたいことを怒涛の勢いで訴え続けた。

「寝言という現象は、寝言を言う人間の覚醒中枢の働きが弱いせいで起こるんだ。普通なら、言葉を喋った時には筋肉の刺激が脳に伝わって覚醒中枢を刺激し、それで目が覚めるもんなんだが、寝言を言う人間はその覚醒機能が不十分なせいで、自分がものを喋っている自覚を持てないわけだな」
「それが?」
「俺は、聖闘士の寝言というのは、緊張を強いられる戦いの連続の弊害なんじゃないかと思う。脳が眠っていても、身体だけは敵の攻撃に反撃できるよう身体が環境に順応した結果なんだ、おそらく」

懸命に氷河が語り続ける寝言の仕組みを聞いていた瞬にわかったことが一つ。
それは人がなぜ寝言を言うのかということではなく、例の寝言の件を星矢が氷河に話したのだということだった。
「幸い、人間には睡眠中にも防衛機能が働いていて、都合の悪いことは喋らないようにできているそうだ。寝言で自分の秘密や悩みを言うことは、まずないらしい」

『人は寝言で自分に都合の悪いことを言うことはない』――それが氷河のこの長広舌の主旨だというのなら、瞬はぜひとも彼に確認したいことがあった。
「じゃあ、もし氷河が寝言で僕を好きだって言っても、それは氷河の防衛機能が言わせた言葉なの? ほんとは嫌いなのに、正直に嫌いって言ったら、僕に殴り倒されるとでも氷河は思ったわけ」
「そ……そういう意味じゃない。人は寝言で自分に都合の悪いことは言わないようにできているから、言ったことすべてが本心からの言葉だとは限らないというだけで、寝言の全部が嘘なわけではないと――」

必死に瞬への弁明に努めながら、氷河は、我ながら苦しいことをしている――と思っていたのである。
『おまえを好きだ』は嘘ではなく、『おまえにいかがわしいことをしたい』は嘘である――という結論に辿り着くためのうまい理屈が出てこない。
そもそもそれは(半分は)事実ではないのだから、詭弁の天才ゼノンにでも、今の瞬を納得させることは無理だったろう。

案の定、瞬は氷河に弁駁してきた。
「じゃあ、あれは嘘でもないの。氷河はほんとにあんなこと考えてるの。氷河、ひどいことたくさん言ったんだよ。ぼ……僕の人権無視してるみたいな、まるで僕を都合のいい玩具か何かと思ってるみたいな……」
しかも、大抵の場合、瞬の弁駁には、“涙”という強烈な後押しが洩れなくついてくる。
今もそうだった。
瞬は瞳を潤ませて、氷河に尋ねてくるのだ。
「あれは心にもないことなんだよね?」
――と。

「う……」
氷河は答えに窮したのである。
瞬の瞳は、涙がその頬に零れ落ちてこないのが不思議なほどに潤んでいる。
氷河は瞬を泣かせてしまわないために、『もちろん俺はそんな不届きなことを考えたことはない』と言ってしまいたかった。
しかし、彼にはそうすることができなかったのである。
氷河には、『馬鹿は言っても 嘘は言わない』という、対瞬限定の堅い信念があったのだ。

その信念を守るために、氷河はすべてを冗談にしてしまう決意をしたのである。――『おまえを好きだ』も含めて。
「いや、まあ、俺がおまえをダイスキで、毎日朝から晩まで飽きることなく、おまえ絡みの妄想をしているのは事実だが」
軽佻浮薄を極めた口調に能天気な馬鹿笑いを付加して、氷河が言う。

氷河のそういう態度に出合った時、いつもなら怒りをすぐに苦笑に変える瞬が、今日に限っては彼の言葉をその言葉通りに受け取る。
眉を吊りあげて、瞬は掛けていた椅子から立ちあがった。
そして、あの細腕で、氷河を新品の長椅子ごと 庭に叩きつける。

一週間前 自分が真っ二つに折れた長椅子と庭に転がっていた理由を、氷河はめでたく知ることができたのだった。



■ ゼノン:エレア派のゼノン。『アキレウスと亀』等ゼノンのパラッドックスで有名な弁証法の祖。もちろん、ほも。



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