「ありがとうございます。先生がお力添えくださらなかったら、どうなっていたことか……」
急遽怪我人収容所になった天蠍宮で、満身創痍の怪我を負った師匠に、瞬が『感謝』の一言では言い表し難いほどの思いを込めた眼差しを向けてくる。
無理に寝台に上体を起こしたミロは、瞬のために笑顔を作った。
「なに、可愛いおまえのためとあらば、怪我の1つや2つや3つや4つ」
「100箇所だ」

極めて冷静なカミュの突っ込みは、辺りに白々しい空気を漂わせることになったが、その発言は瞬にだけは涙を運んできた。
その瞳から、瞬が一粒涙をこぼす。
「瞬……?」
弟子の涙に慌てたミロは、だが、瞬の涙が何のために流されたものなのか、すぐにはわからなかったのである。
それは、蠍座の黄金聖闘士のために流された涙だったのであるが。

「僕は……僕は、本当に出来の悪い弟子だったと思うんです。それなのに、僕のためにこんなお怪我までして……」
「出来の悪い弟子とは、カミュのところの弟子のようなのを言うんだ。おまえは私の自慢の――」
瞬はいったい何を言い出したのかと戸惑いながらも、ミロは瞬の言葉を否定した。
瞬が、微かに横に首を振る。

「僕はいつも、先生のお教えをすぐには理解できなかった……」
まるで懺悔するように、瞬は病床の師に向かって言葉を継いだ。
「先生はいつも僕に、無理に聖闘士になることはない、聖闘士になるのは諦めろと幾度もおっしゃった。育てた者の責任において、一生 面倒を見てやるから、ずっとミロス島にいればいい――とまで……」
その場にいたカミュと氷河が、じろりと瞬の師を睨む。
ミロがどういう下心からそんなことを言ったのか、彼等にはわかりすぎるほどにわかっていた。

「地上の平和を守るという大切な役目を担う聖闘士の育成に携わってらっしゃる先生が、本心からそんなことをおっしゃるはずがない。あれは、人にはいくらでも逃げ道が用意されていて、でもその逃げ道に逃げ込んではいけないのだという教えだったのに、愚かな僕は先生の真意に辿り着くまでにとても長い時間がかかった。先生のお言葉に甘えてしまいそうになったことも何度もあった……」
「いや、それは――」
「弱い人間は死んで当然だとか、醜い人間は嫌いだとか、馬鹿は生きている価値がないとか、卑屈に過ぎる人間も傲慢な人間も、愚か者はみんな この世から消滅すべきだとか、そんなことまで先生は平然とおっしゃって――」

いかにもミロの言いそうなことだと、彼との付き合いの長いカミュなどは思っていたのである。
自分はそういう人間ではないと、ミロは信じているのだ――傲慢かつ愚かなことに。

「先生がおっしゃることは、僕には暴言にしか思えなかった。先生のおっしゃることが言葉通りのはずがないのに、先生が本心からそんなことを考えているはずがないのに、どうしてそんなことをおっしゃるのか、僕はずっとわからなかった」
瞬の眼差しは真剣そのものである。
さすがのカミュにも氷河にも、ここで、『深読みしなくても言葉通りに決まっている』と突っ込むことはできなかった。

「先生はいつも、ご自分の本当のお考えとは反対のことをおっしゃって、僕に“自分で考えること”を教えようとしてくださっていらしたんですよね。その考えがなぜ間違っているのか、正しい答えに自分で考えて辿り着けと、そして、自分の判断で自分の生き方を決めることができるようになれと、そうするすることが――そうできることがいかに大切なことなのかということを、先生は僕に伝えようとしてくださっていた」

いくら何でもそれは好意的に過ぎる解釈だと、カミュは思っていた。
氷河も無論、彼の師に同感。
当のミロ自身までが、瞬の言葉に呆然とし、かつ自失しかけていた。
彼等の誰も 感動の涙している瞬を邪魔することはできず、瞬の考えをあえて否定できる勇者も、その場には一人としていなかったが。

「氷河とのことも――」
純真な人間との意思疎通の難しさを今更ながらに痛感していたミロが、瞬の唇から発せられたその名にぴくりとこめかみを引きつらせる。
そんなミロに気付くことなく、瞬は彼の言葉を紡ぎ続けた。

「先生のお言葉がなかったら、僕はきっと氷河とのことも、そんなのは普通のことじゃないんだからって、自分では何も考えずに済ませてしまっていたと思うんです。先生の深いお教えを受けていたからこそ、僕は自分の心に真正面から向き合い、自分が氷河を大好きでいることに気付くことができた。人に何と言われようと、自分が考え抜いて辿り着いた結論を曲げることはないのだと思うことができた。僕は、先生のおかげで、自分が幸福になる道を見つけることができたんです」

瞬は、自分の傍らに立つ氷河にちらりと視線を向けてから、ぽっと恥ずかしそうに頬を染め、再び彼の師に向き直った。
そして、唇を噛みしめるようにして、彼の恩師に頭をさげた。
「ありがとうございます。僕、先生のこと、心から尊敬しています」
「瞬……」

ミロは泣くに泣けなかったのである。
無論、瞬に真実を告げることもできなかった。
師の願いに反して見事な成長を遂げた弟子の姿に、瞬がミロス島にやってきた日の姿が重なる。

『よろしくお願いします。ミロ先生』
初めて出会った時も、瞬はそう言ってぺこりとミロに頭をさげてきた。
大きな瞳と小さな手。
聖闘士志願の幼くて小さな子供。
触れただけで折れてしまいそうな その頼りなさに、こんな子供がいったいなぜと、ミロは驚いたものだった。

あの時の小さな子供は、もうどこにもいないのだ――。






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