「あの……」
やっと口がきけるようになったらしいその子供が、氷河の前で首をかしげる。
手足の細い子供とはいえ、そんな枝の端に乗って なぜこの木の枝は折れないのかと、首をかしげたいのは氷河の方だった。
その時、二人のいる場所の上にある枝から、ふいに鋭い鳴き声を響かせて鳥が飛び立つ。

「あ、鳥が……」
氷河の前に突然現れた子供は氷河を無視して――つまりは隙だらけで――鳥の飛び去った春の空を無念そうに見詰めた。
ほとんど膝が触れ合うほど側にいるというのに いつまでも無視され続けているのも癪で、氷河は、視線を高い空の上に飛ばしている子供に声をかけた。

「どこから来た」
「御斎峠の向こう」
「伊賀者か!」
あっさりと返ってきた返答に、氷河が目を剥く。
子供は氷河が気色ばむのに、逆にひどく驚いたようだった。
が。

甲賀の忍びにとって、伊賀の者は数百年来の宿敵である。
氷河個人は伊賀者に対する宿怨は抱いていなかったが、同じ技を用いて同じ世界で生きる者たち――何よりも己れの力を信じる者たち――で作られている二つの流れがあれば、自らが組する集団の優越を信じ誇り確立したいと願うことは、強弱で立場の上下が決まる世界に身を置く者の性なのかもしれない。
忍びの者に比べれば才覚器量ではるかに劣る大名や幕臣たちが表の世界で富や名声を得ていることは羨みもせず、むしろ見下している感さえあるのに、同じ世界に住む者に向ける忍び同士の敵愾心は尋常のものではなかった。
そういう者たちの存在を、氷河は甲賀の里に幾人も知っていた。
無論、表の世界では表の世界なりに様々な争いや敵対がある。
要するに人は、力量や境遇が自身と同程度の者に対して敵愾心を抱くようにできているらしかった。

伊賀と甲賀は、過去数百年の忍びの歴史の中で相争ったことも数知れず、そのたびに勝敗を決することができず、闘いのたびに遺恨を残し、怨嗟を募らせてきた、まさに不倶戴天の敵同士だった。
忍びであれば、その事実を知らないはずはないのだが、少女のようなその子供は氷河の言葉を平然と肯定してみせた。

「うん。あなたは甲賀の人? 初めて見る。甲賀の人はみんなこんなに綺麗なの」
悪びれる様子もなく、正面から“宿敵”の顔を覗き込んでくる子供に、氷河は毒気を抜かれた。
そう言う声を聞いても男か女かわからない。
胸元を見た限りでは男のようなのだが、手足を見ると どうしても女としか思えない。
氷河は、しかし、その謎の答えを当人に尋ねることはためらわれたのである。
忍びがそんなことも見切れないのでは立つ瀬がない。

「あの鳥をどうする気だったんだ」
「馴らすことができるのなら馴らそうと思ったんだけど……」
「あれは芸のない山鳥だ。無理だろう」
氷河に断言された子供が、しょんぼりと肩を落とす。
「なぜ、そんなことを考えたんだ」
氷河に問われると、一つ小さく嘆息してから、その闖入者はためらいがちに口を開いた。

「僕、いろんな忍びの術の特訓を受けたんだけど、何ひとつものにならなくて……。だから、僕自身が駄目なら、鳥や獣を使えるようになりたいと思ったの」
「…………」
春の花のようなこの子供は、本当に伊賀者らしい。
この甲賀の里に、確かに忍びの者なら入り込めるだろう。
しかし、相当の手練てだれでないと、この場に辿り着く前に、里の者に見咎められるはずだった。
ところが、氷河の目の前にいる子供は隙だらけで、到底“手練れ”などというものではない。
案外、害意がなく隙だらけで、その身辺に緊張した空気をはらんでいないからこそ、それが可能だったのではないかと、氷河は思ったのである。

「そういうのを何と言うか、知っているか」
半分 揶揄するように、氷河が伊賀の忍びに尋ねる。
しばし考え込む素振りを見せてから、子供は自信なさそうに答えてきた。
「他力本願……?」
「わかっているならいい」
首肯する氷河に、子供が恨めしそうな上目使いを向けてくる。
氷河は、その様子をつい『可愛い』と思ってしまった。






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