「あなたは甲賀の人なんだよね? 綺麗な髪。それは術に関係あるの。あなたならとても綺麗な術を使うんでしょうね。どんなことができるの」
呆れたことに氷河の不倶戴天の敵は、木の上で氷河を相手に閑話を始めた。
呆れつつ、だが、その相手を務め始めた自分自身に、氷河は更に呆れてしまったのである。

「己れの術を人に教える忍びがいるか。おまえがそれを知る時には、おまえは死んでいなければならない」
「僕にも使えそうなら、教えてもらおうと思ったのに」
事と次第によっては忍びの命に関わることを気軽に聞きだそうとする態度に 氷河は恐れ入ったのだが、その子供にそんなことができるのは、その子供がそれをさほどの大事と考えていないからのようだった。

「伊賀には色んな術が伝わってるんだけどね、火薬を使う術だの 水を使う術だの 薬を使う術だの幻術の類だの。でも、僕は、どれも駄目で、だから……」
だから“他力本願”を行おうとしたのだろうか。
実際は、自分の身体以外のものを使う“他力本願”の方が、火術や気合術などより はるかに習得が困難な技だということも知らずに。

「おまえに取りえはないのか。他より優れているところ」
誰もが持っているはずのその力を見付け、その力を生き抜くための術に変えていくのが、忍びの技の基本である。
氷河に問われると、子供はまたしてもしばらく考え込む素振りを見せ、それからやっと思いついたように言った。

「駆けっこは速いよ」
「足の遅い忍びなど聞いたことがない。それは自慢にはならないだろう」
「身も軽い方だと思うけど」
「そのようだな」
重力を無視したように身のこなしも軽かったが、身体自体も細い。
その気になれば容易に唐手術くらいは身につけられそうだった。
それができないというのなら、この子供は本心では忍びの術など習得したくないと思っているのではないかと、氷河は察したのである。

「おまえ、歳は幾つだ」
「16」
「嘘だろう」
吹き出してみせながら、16でこの体型ならこの子供は少女ではなく少年なのだと、氷河はやっと確信に至った。
それまで氷河に何を言われても師匠に対する弟子のように殊勝な態度でいた“少年”が、初めて反抗的な態度に出る。
彼はぷっと頬を膨らませて、口をへの字に曲げてみせた。

「そうだ、僕、風を起こすことができるよ」
「火を使うのか」
風絡みの大技は、大抵は火薬を用いて火を起こし温度差を利用して風を生ぜせしめるものである。
だが、その少年の風術はそんなものではないようだった。

「そんなのは使わないけど」
言うなり少年は、木の枝に沿って伸ばしていた氷河の脚に跨る格好で氷河に近付き、氷河の顔の側に唇を寄せるとふっと息を吹きつけてきたのである。
その吐息はなぜか花の香りがし、氷河は真面目にそれを伊賀の秘術なのかと思ったのである。
が、そうではなかった。

子供じみた少年は、僅かに目をみはっている氷河に、
「これも風でしょ。火なんか使わなくたって起こせる」
と、得意そうに告げてきたのである。
「……。で、この術は敵にどんな損傷を与えられるんだ」
「戦国の世とは違って、今時の忍びは、人を傷付けることよりも いかに人を傷付けずに欲しい情報を手に入れられるかが……あ」

ついにまともな伊賀の忍術論を聞けるのかという氷河の期待は、早々に裏切られた。
甲賀の忍びと伊賀の忍びのやりとりをからかうかのように、突然二人の間に蝶が一匹割り込んでくる。
それは図々しくも氷河の袴の上で羽を休め始めたのだが、途端に少年の注意はすっかりその白い羽の持ち主の方に向いてしまったのである。

「蝶々を使った術って綺麗だと思わない?」
「そうだな」
氷河は脱力し、苦笑した。
この子供の意識は、なかなか一点にとどまることをしないらしい。
少しの間をおいてから、その意識が氷河の許に戻ってくる。

「ね、甲賀には、僕みたいなみそっかすにも覚えられるような術はない?」
「甲賀なら、おまえみたいなのには男を――」
男を誘惑する術を教え込むだろう――と言いかけて、氷河はそうするのをやめた。
未だに戦国の気風を残す古い家には その趣味を持った大名が多く、その術を駆使できるだけの容貌の持ち主は甲賀でも重要視されていたが、この子供にはそんな“仕事”は似合わない。
代わりに氷河は、別の案を口にした。

「そういう奴は鍛冶や薬の製法を覚えるしかないだろう」
「そうだよね……」
「それでは駄目なのか」
忍びの用いる武器や薬は表の世界のそれとは異なる。
それらのものを作る技に秀でた者は、忍びの世界で重んじられることこそあれ、決して軽んじられることなどないはずだった。
だが、この子供にはこの子供なりの事情というものがあったらしい。

「僕、こう見えても、千賀地ちがち服部家はっとりけの嫡流の一人だもの。何か術が使えないと、格好がつかないんだ」
「千賀地服部家 !? 」
子供が軽い口調で口にした家名に、氷河は目をみはることになった。

千賀地服部家といえば、伊賀流忍術の祖として知られる服部平左衛門家長が源平の壇ノ浦合戦後に伊賀に戻り、姓を千賀地に改めて興したといわれる伊賀忍者の宗家とも言うべき名門である。
無論、強さと才覚だけがものを言う忍びの世界で、伊賀と甲賀は両者共 家門にこだわらない共和制を採っていたが、名のある家から多くの優れた忍びが輩出することもまた紛う方なき事実で、家長の時代から400年以上を経た今でも、千賀地服部家は忍びの世界ではひときわ輝く名門だった。

「うん、僕の兄さん、強いんだよ……あ」
その家名の重さを自覚しているのかいないのか、子供は得意げに氷河に告げた。
そして、自分の言葉で兄のことを思い出したらしい。
「早く帰らないと兄さんに怒られる。僕、帰るね」

言い終わる前に、子供は氷河の眼前から姿を消し、春の野原の中に立っていた。
ほとんど反射的に、氷河は、その子供に、
「また会えるか」
と尋ねてしまっていたのである。
「来ていいのっ!」
木の下から、弾んだ声の返事が返ってくる。

「伊賀と聞くと渋い顔になるウチの年寄り共には見つからないようにな」
「うん。僕、瞬っていうんだ」
「俺は氷河だ」
「氷河」
瞬はその名を舌の上で転がすように繰り返してから、こっくりと頷いた。
そして言った。

「じゃあ、明日またね!」
(明日…… !? )
随分早い再会の約束に面食らいつつ、それでも氷河は、自分が明日またこの場所に来ることを 当然のことのように決めてしまっていたのだった。






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