「この花、名前はあるの? うばらの一種なのかな。綺麗な花なのに、御斎峠の向こうには咲いてないんだ。」
それは20数年前に 氷河の母がこの里に持ち込み植えた白い薔薇の花だった。
本来はこんな野原に根付けるほど強い花ではないのだが、それはこの甲賀の里の草原にしっかりと根をおろし、美しい花を咲かせている。

母を思い起こさせるその花は氷河にとっては特別なもので、だから瞬がその花を気に入っていることを、氷河は素直に喜んだのである。
再会するなり挨拶らしい挨拶もせずに花にばかり目を向けている瞬に機嫌を損ねることは、氷河にはできなかった。

「それは挿し木ができるぞ。持って帰って伊賀の里に植えるといい。棘があるが、まあ綺麗な花には棘があるもんだからな」
「氷河にも棘があるの?」
「いつおまえを刺そうかと、隙を窺っているところだ」
わざと意地悪く笑ってみせると、瞬は一瞬きょとんとした顔になった。
それから突然、目の前にあった薔薇の木の中に右の手を差し入れる。

「痛っ」
「棘があるから気をつけろと言ったばかりだろう! 大丈夫か!」
昨日と同じ高木の枝に寝そべっていた氷河は、瞬の小さな悲鳴を聞くと、慌ててそこから飛び降り、瞬に駆け寄って その手を取った。
人差し指の先に小さな血の玉が浮かんでいる。
「ああ、これくらいならすぐに血も止まるだろう」
ほっと安堵の息を漏らした氷河の手から、瞬は自分の手をふわりと浮かせた。

「僕を刺そうとして隙を窺っているところだなんて言って、僕が怪我したら飛んできてくれるんだね。嘘つき」
「…………」
どうやら氷河の嘘を証明するために、瞬はわざと薔薇の木の中に手を突っ込んでみせたものらしい。
棘に刺された振りをすればいいだけのところを 本当に刺してしまうところが瞬の馬鹿正直な面のようだったが、氷河は瞬のその咄嗟の行動に驚いたのである。
それは、優れた忍びには欠かせない、機転と呼んでいいものだった。


瞬と話をしているうちに、注意力散漫だと思っていたこの少年が、実はひどく聡明で洞察力に優れ、その上、伊賀と甲賀の現状を真剣に憂えていることがわかってくる。
「僕と氷河みたいに、伊賀と甲賀も仲良くできたらいいのにね」
用いる言葉が幼いだけで、それは氷河が常日頃から憂慮していたことと同じだった。

「今の伊賀はおまえの兄が仕切っているのか」
「実質は」
「実質? 形式上の頭が他にいるのか」
「僕」
「なに?」
「だって、伊賀でいちばん強い兄さんが、僕の言うこと何でも聞いてくれるんだもの」
「……ああ、そういう意味か」

それから ひと月ほど、幸い 氷河が出ていかなければならないほどの重大事が幕府から指示されることはなく、氷河と瞬は毎日その場での密会を重ねることができた。
瞬と親しさが増すにつれ、氷河は以前より一層、伊賀と甲賀の反目の解消を願うようになっていったのである。






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