事件が起きたのは、氷河と瞬が出会って ひと月後のことだった。
一触即発の状態にあった伊賀と甲賀の衝突。
それは、伊賀の里でも甲賀の里でもなく、江戸でもない場所で発生した。

幕府としては、それは、伊賀者と甲賀者に同じ任務を与え、両者を張り合わせることで功を狙ったものだったのだろう。
が、幕府の目論見は外れ、派遣された二組は派遣先の加賀藩・前田家の家中で悶着を起こし、仕置家老の従者を落命させるという失策を犯してしまったのである。

加賀に派遣されていた忍びたちは互いに責任をなすりつけ合い、幕府はなぜかのらりくらりと仕置きの裁定を先延ばしにした。
そんな状況下で、血気にはやった伊賀・甲賀双方の下忍たちがあちこちで衝突を始める。
最初のうち、それは他愛もない小競り合いだったのだが、その争いで命を落とした者が出るに及んで、山を一つ置いて隣接している伊賀の里と甲賀の里の間の空気は、一気に緊張することになったのである。


「しばらく、会わない方がいい。おまえといる時にはつい忘れてしまうが、どうやら俺とおまえは不倶戴天の宿敵同士らしい。こうしているのが他の者に見付かると、おまえの身が危うい」
「僕は……僕たちの力で皆の争いをやめさせられないかと――」
ほんの数日前までは明るい陽光に包まれていた二人の密会場所に、今日は重苦しい色の雲が垂れ込めている。
瞬の瞳は、今にも雨を降らせてしまいそうなほどに潤んでしまっていた。

「うちの――甲賀の黒川や美濃部の者が10人近く命を落とした。もう……」
「それは、でも……でも、僕は氷河と会えなくなるなんて絶対に嫌だ!」
いつになく気を高ぶらせた様子で、瞬が氷河に訴えてくる。
「瞬……」

数百年来の宿敵の頭領を見上げる瞬の瞳が 自分と同じ思いをたたえていることを確信し、氷河は瞬の細い身体を抱きしめたのである。
ごく短い時間、瞬は全身を緊張させたが、すぐにその身体は元のやわらかさを取り戻した。
瞬の頬が氷河の胸に押し当てられ、瞬の手か氷河の上衣の背をつまむように小さな拳を作る。
「氷河……僕、氷河が……」
溜め息のような口調で瞬が何言かを口にしようとした時、二人の間に蝶よりも無粋な邪魔が入った。

「甲賀の若き頭領の得意技は色仕掛けか」
瞬の淡い色の髪の向こうに、くすんだ灰色の忍び装束を身に着けた男が一人立っていた。
その後ろに長い漆黒の髪をした女がもう一人。
「見事と褒めるべきなのだろうな。伊賀の頭領を鮮やかに手なずけるその手腕を」
「貴様は……」

それが伊賀の者だということは名乗られずともわかっていた。
問題は、氷河の腕の中にいた瞬がゆっくりと後ろを振り返りながら、その男を、
「兄さん」
と呼んだことだった。
男は頭巾をつけていなかったので、顔立ちも表情もはっきりと見てとれた。
正直なところ、氷河は、この二人が兄弟なのなら、鷹と蝶ですら実の兄弟で通ると思ってしまったのである。
それほどに、二人は似たところのない兄弟だった。

「こっちに来い、瞬、この馬鹿者!」
瞬が、氷河と兄の間で棒立ちになる。
兄に向かって微かに横に首を振った瞬の着物の袖を、いつのまにか二人の側に来ていた黒髪の女が強く引いた。
「瞬様、こちらに」
氷河はその女のすることを止めなかった。
氷河には瞬の兄の殺気がはっきり感じとれていた。
瞬に怪我をさせるわけにはいかない。

「卑怯な手を使ってくれる。瞬が人を疑うことを知らないのを利用して」
もし、相手を己れの意に従えようとする意図があったなら、それは“卑怯”ではなく、忍びとして当然かつ許される一手だった。
氷河は無論そのつもりはなかったが、伊賀にも人の心と身体を惑わす術の一つや二つは伝わっているはずである。
つまり、その手を使う者の存在を許せないほど、瞬は彼にとって特別な存在であるらしい。
氷河は、瞬の兄に妙な妬心を覚えた。

「兄さん、やめてください!」
対峙する二人の間に、瞬の声が割って入ってくる。
幸い、不吉な色の髪をしたくノ一が、瞬をしっかりと押さえてくれていた。
「何のために兄さんと氷河が争うの!」
「俺には争う理由はないが、おまえの兄にはあるようだ」

氷河が察した通り、瞬の兄は火術の使い手のようだった。
母の愛した花を焼かれてしまってはたまらない。
氷河は、彼の放った抛火矢ほうりびやの火を、即座にその凍気で消し去った。

「……迷子の弟を連れ戻すついで・・・で倒せる相手ではないようだな」
それは一瞬の出来事だったのであるが、それで瞬の兄はこの場を早々に切り上げることを決意したらしい。
賢明な判断だと、氷河は思ったのである。
水を用いない冷却系の術など、甲賀の忍び以外はその存在を知らず、また防ぎ方も知らないはずだった。






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