この世界に自分たちしか存在していないような幸福な錯覚から目覚めると、世界が二人に覆いかぶさってきた。
「これはお陽さまのせい? それとも氷河が僕にかけた術なの……」
あふれる陽光と、むせかえるような緑と、白い花。
「氷河が輝いて見える。眩しい。やだ」
「おまえこそ俺に術をかけただろう。おまえが花のように見えるぞ」
本当に世界がそれらのものだけでできていたらどんなにいいだろうと思いながら、氷河は、頬を上気させて横を向いてしまった瞬の視線を自分の上に戻すため、瞬の髪に手をのばした。

その腕を掠めて、突然飛んできた角箸形手裏剣が二人の間の地面に突き刺さる。
反射的に自分の背で瞬を庇い、氷河はその手裏剣が飛んできた方に身体を向けたのだが、そこにいたのは瞬に害を為す者ではなかった。
昨日、瞬の兄と共にいた漆黒の髪の女が、怒りに燃えた目をして、そこに立っていた。

「おのれ、甲賀者が何という不敬を……!」
なにしろ状況は、今までここで何が行われていたのかが一目瞭然。彼女の怒りも当然といえば当然のことだったろう。
無論、そうでなかったとしても『誤解だ』などという間の抜けた台詞を吐くつもりは、氷河にはなかった。
代わりに氷河の口を突いて出てきたものは、溜め息が一つと、
「無粋な上に情け容赦もない……。もう少し待っていてくれてもいいだろうに」
という嘆声だった。

「このっ……!」
彼女の二投目をよけるために、氷河は下草の上に敷いていた着物ごと瞬の身体を抱きかかえたのだが、彼の所作は徒為になった。
「駄目っ、氷河に掠り傷ひとつでもつけたら、僕が許さない……!」
氷河と瞬の周りを、いつのまにか緩やかな気流が取り囲んでいた。
それは、あっけにとられている氷河の目の前で徐々に速さを増していく。
着物を直した瞬は、空気の渦の外にいる彼の仲間を険しい目で睨みつけていた。

「瞬様……? いつのまにこのような術を――」
瞬の作った風は、由比を二人の側に近寄らせない。
由比は気流の中にいる瞬に向かって叫んでいた。
「瞬様っ! 甲賀のために何人もの伊賀の者が死んだのです! 私の弟も3年前の術比べで甲賀の者に破れ命を落とした。瞬様は、兄君がその者に殺されても その者を許すのですかっ!」

「どうして、そんな悲しいことを言うの……」
おそらくは氷河の身を案じて険しい色になっていた瞬の瞳が、悲しげな色を帯び始める。
「いつかはそうなります。瞬様がその者と闘えないのなら、他の誰かが倒すしかないでしょう。そして、その者を倒せるのは、おそらく伊賀にはあなたの他にはあなたの兄君しかいない!」
「そんなことは……」
「いいえ、瞬様なら倒せましょう。その者……その者を今、瞬様が倒せば、他の者は死なずに済みます!」
「何を言ってるの。僕なんかに氷河を倒せるはずがないし、氷河ひとりを倒しても、伊賀と甲賀の争いがなくなることは――」
「なくなるのです! どうしても争わずにいられないのなら、頭領首を取ることで蹴りをつけろと、将軍家からご下命がありました。以後、負けた方を勝った方の下位組織として扱うと、ご沙汰があったのです!」

由比がその言葉を言い終えた途端に、瞬が作っていた空気の流れが霧散する。
突然それが消え去ってしまったことに息を飲んだ くノ一に向かって、瞬はぽつりと呟いた。
「僕が死ねば、争いはなくなるの……」
「おまえが死ぬことは許さん」
氷河が即座に、瞬の言を諫止する。
瞬は、切なげな目をして、半分怒っているような氷河の顔を見上げてきた。
「でも僕は……氷河が死ぬのは絶対にいや。他の誰も もう……」

「甲賀の者は俺がきっと説得する。伊賀と甲賀が手を携えて任務を果たせば、将軍家も文句はないだろう。俺がおまえと睦み合っていても誰も邪魔だてできないように、きっと俺がそうする」
「氷河……」
「おまえが生きていることが条件だ。おまえが生きてさえいれば、俺は永遠にでも その努力を続ける。だから――」
『“死”などで、この争いに決着をつけようとはするな』とまでは、氷河は言葉を続ける必要はなかった。

「僕も――僕にできることは全部してみる」
氷河の瞳を見詰め、見入り、これまで見たことがないほど決然とした表情で、瞬は氷河に断言した。






【次頁】