その夜、氷河が暮らす甲賀屋敷に思いがけない来客があった。
それは、あの、漆黒の髪をした無粋な伊賀の女忍者で、見張りに見咎められて氷河の前に引き出されてきた彼女は、手と言わず顔と言わず――装束で隠されている場所もおそらく――傷だらけだった。

「おまえたち、女ひとりに手荒な真似をしたのではあるまいな」
氷河の叱責に、彼女を引っ立ててきた下忍たちが一斉に左右に首を振る。
「しかし、このありさまは……」
「わ……我々を助けてほしい……!」
更に下忍たちを問い質そうとした氷河の言葉を遮ったのは、他でもない伊賀の くノ一当人だった。

「伊賀の者が甲賀に助けを求めにくるとは、いったいどういう風の吹きまわしだ」
では、彼女が負っている怪我はこの甲賀の里に入る前に負ったものであるらしい。
氷河に問われると彼女は、肩を落とし、顔を伏せ、くぐもった声で、彼女がここに来た理由を氷河に告げた。

「貴様が死んだと、瞬様に虚言を言ったら、瞬様が狂っておしまいになられた。私ごときには抑えられない」
「俺が死? 瞬はなぜそんな馬鹿げた嘘を信じたんだ」
いったい瞬は、甲賀の頭領が誰の手にかかって命を落としたと考えたのか――少しばかり自尊心を傷付けられて、氷河は彼女に問い返した。
漆黒の髪の くノ一が、唇を噛みしめる。

「花を――見せたら……」
「花?」
「甲賀の里に咲いているあの白い花を――。甲賀の頭領が最期に見詰めていたものだと言って、白い花を一輪手渡したら、瞬様はそれだけで私の嘘を信じておしまいになったんです」
「…………」
どうやら、このくノ一が得意とする術は、人の心の機微につけ入る偽言私語の術らしい。
それは、いかにも瞬の心を揺らすような虚言だった。

「それで瞬は……瞬が狂ったとはいったいどういうことなんだ」
「瞬様は、伊賀の里の者をほとんど……小半時もかけずに殺してしまわれた」
「なに !? 」
いくら瞬の“真心”の力が強大でも、瞬にそんなことができるはずがない。
そんなことを、瞬がするはずがなかった。
氷河はこれこそが、この女忍者の虚言なのではないかと思ったのである。
――が。

「伊賀の千賀地服部家の嫡流には魔が憑くことがある――と言われているんです。それは およそ人の力では制することのできない強大な魔で、伊賀の者はそれを冥府の王と呼んでいる。冥王が降りてくる者の身体には五芒星の形をした痣があり、生まれたばかりの瞬様のお身体にそれが認められた時、千賀地服部家の家督は一輝様ではなく瞬様に譲られることになったのです」
「瞬の……肩の?」

「生きている貴様――あなた様の姿を見たら、瞬様は正気に戻ってくれるかもしれない。お願いです。甲賀の里に来て、瞬様のお心を静めてください。このままでは瞬様は兄君もその手にかけてしまう……!」
この くノ一は、数年前に甲賀との争いで弟を失ったと言っていた。
実の兄弟が相争うことは、彼女にとっては耐え難いことなのだろう。

「わかった。今すぐに伊賀の里へ行こう」
氷河は彼女に頷くと、これは罠なのではないかと疑う甲賀の者たちを30人ほど引き連れて、夜の御斎峠を越えたのである。






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