そして、運命の日はやってきた。

「痛い……痛い、うわぁーん」
今日も今日とて いつものように、訓練中に瞬の泣き声が周囲に響き渡り始める。
「瞬、泣くなよ〜。また一輝が来るだろ〜っ!」
瞬の今日の訓練の相手は星矢で、訓練室に響きだした瞬の泣き声に、彼は大慌てに慌てていた。

周囲の仲間たちは、また始まったと言わんばかりの表情で、瞬と瞬の側であたあたしている星矢を遠巻きに眺めているばかり。
今ここで瞬の側に近寄ると、まもなくやってくるだろう瞬の兄の怒りのとばっちりを食いかねないので、誰も泣いている瞬の側には近寄れないのである。
一輝はいつ来るか、今来るか、今日の一輝はどんな罵声を星矢に浴びせるのか――緊迫した空気が漂う訓練室内に、いつもより1分ほど早いタイミングで、瞬のナイトは颯爽と登場した。
――が。

「瞬をいじめる悪者めーっ!」
という大音声と共にその場に現れたのは、いつもの人物とは微妙に違っていた。もとい、かなり違っていた。
その場に居合わせた者たちには、すぐにそれがわかった。
なにしろ大声で罵倒するなり星矢を投げ飛ばした少年の髪は、一輝のそれとは全く違う 金の色をしていたのだ。

「氷河……?」
なぜここに氷河が? と訝る瞬の瞳には、既に涙は浮かんでいなかった。
思いがけない展開に驚いて、瞬の涙はあっさり引っ込んでしまったのである。
「瞬、大丈夫か」
星矢を投げ飛ばした金髪の少年が、瞬の方を振り返り、手を差しのべてくる。
「瞬をいじめる悪者は、俺が退治したぞ!」

誇らしげに高らかに そう宣言する金髪の少年の顔を見て、瞬は息を飲んだ。
――正確には、顔を確認できないことに息を飲んだ。
星矢を投げ飛ばしたその少年は、目の部分だけに穴の開いた黒いハンカチで、顔の上半分を隠してしまっていたのだ。

「あ……ありがとう。あの……ひょう……が……? そのお面……」
「お面じゃない。仮面だ。マスク」
「ど……どうしてそんなものをつけてるの?」
「正体を隠さずにおまえを助けたりしたら、みんなに、『氷河の奴、ほんとは瞬のことが好きなんだぜー』とか言われるに決まってるじゃないか。おまえに恩を売るみたいだし」
「う……うん……そうだね」

瞬にはそれは まるで訳のわからない理屈だった。
そして、この世に“理解できないもの”ほど不気味なものはない。
瞬は、この奇妙な扮装をした仲間の機嫌を損ねるのが恐ろしくて、全く理解できない彼の言葉に、こくこくと幾度も頷き返したのだった。

瞬がびくついていることに気付いているのかいないのか、黒いマスクで顔を隠した金髪の少年は、瞬に一途に見詰められる快感を存分に味わいつつ、
「正体を詮索するな。正体を明かさないのが正義の味方だ」
と、斜に構えて言い放った。

彼は既に自分で自分の名を名乗ったような気もしたが、そんなことを指摘するのも恐しい。
瞬は、この得体の知れない不気味さをたたえた正義の味方に、すっかり怯えきっていた。
そして、それでも――たとえ相手が怪獣でも幽霊でも礼節を通そうとするのが瞬である。
『親切にされたら、礼を言うのが人の道』という躾を、瞬は受けていたのだ。

「でも、お礼を言うのに名前がないと……」
「そ……そうか。じゃあ、俺の仮の名は怪傑氷河だ」
「…………」
正体を明かさないのが正義の味方だ――怪傑氷河が言った言葉を心の中で反芻し、瞬はますます混乱の度を深めることになったのである。

実は氷河は――もとい、怪傑氷河は、昨夜図書室で『少年少女世界の名作 アメリカ編・怪傑ゾロ』の本を読んだばかりだった。
半分ほどが挿絵で構成されているその書物の中で、かの正義の味方は、たった一枚のマスクでその正体を隠し、血湧き肉踊る大活劇を演じていた。
彼と同じことをしているのだから、彼と同じように正体がばれることはないと、怪傑氷河は固く信じていたのである。

キツネにつままれたような顔をして、瞬は、瞬の礼節を通した。
「怪傑氷河さん、どうもありがとう」
ぺこりと頭を下げた瞬に、怪傑氷河が得意そうに言う。
「礼には及ばん。何かあったら、俺の名を呼べ。じゃ!」
「あ……」

反射的に瞬が彼を呼び止めようとした時、怪傑氷河の姿は既に訓練室のドアの向こうに消えてしまっていた。
そのドアの向こう側で、怪傑氷河自身は『決まった!』と悦に入っていたのだが、訓練室に残された子供たちは、まさに、“一同唖然”状態だったのである。






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