「これがおまえの気に入りだと?」
そんなものが瞬の“お気に入り”だということが、氷河はとにかく気に入らなかったのである。
氷河は、瞬の“お気に入り”はてっきり動物や庶民の生活が描かれた絵皿や壺の類だと思っていた。
瞬の考古学博物館訪問に、氷河はこれまで幾度も付き合ってきたが、そのたびに瞬が特に熱心に見入る遺物はそういうものが多かったのだ。
この像も、瞬がそこまで気に入っているものなら、自分も幾度も見ていたはずだ――と、氷河は思った。
そして、瞬に好意を持たれている男を とうの昔に嫌っていたはずなのに、と。

にも関わらず、氷河の記憶の中のその像は――その像を博物館のどこかで見た記憶だけは、氷河にもあった――ぼんやりと曖昧な姿を結ぶだけで、どうにも瞬とその像が一緒にいた図を思い描くことができない。
ギリシャで、瞬はもしかしたら、自分の前ではわざとその像の前で足を止めなかったか、もしくは、隠れて見に行っていたのか――氷河は、そんなことを勘繰らなければならない羽目に陥ってしまったのである。
いずれにしても、瞬が自分以外の男の裸を気に入っているという事実は、氷河を非常に不愉快にした。

氷河の気も知らないで――あるいは、知った上で開き直ったように――瞬は、氷河の前で彼以外の男(の裸体)を褒め始め、それがますます氷河の不機嫌に拍車をかけた。
「ね、綺麗でしょ。ミロのビーナスが女性の肉体美の極致なら、これは男性の理想の――」
だから氷河は、瞬の褒め言葉を遠慮なく遮ったのである。
「貧相だ」
という、実に端的な言葉を用いて。

氷河が何を見てそんなことを言ってるのかに気付いて、瞬はその視線をこころもち脇に泳がせた。
知っているくせに 自分にそんなことを言わせる氷河を恨むように、そして、僅かに顔を俯かせて、瞬は小声で言ったのである。
「それは……古代ギリシャでは剥き出しの性器は美しくないとされていたそうだから……」
「どうせ、自分のモノに自信のない男が そういうみじめったらしいことを言い出したんだろう」
数千年前にそんなことを言い出した男の代わりに、氷河は、瞬の気に入りの像を鼻で笑ってみせた。

瞬が、眉根を寄せて、氷河の腕を掴む。
「もう。そんなとこばっかり見てないで、全体を見てよ! 理想的なプロポーションしてるでしょ。四肢の長さの比率、太さの比率、筋肉のつき方、脚のラインに胸のライン、どこもかしこも計算され尽くしたみたいに完璧な造形をしてるのに自然そのもので、こんなに美しい自然を僕は他に知らな――」 
「男が男を評価するのに、他のどこを見ろというんだ。顔もないし――」
氷河は、再度 瞬の賞賛の言葉を容赦なく遮った。
氷河は とにかくその像の持つ価値を下げたくて仕方がなかったのである。
瞬が、さすがに機嫌を損ねたように唇をとがらせる。
それから瞬は、その像の価値を保つために我が身を引き合いに出して、氷河に反駁してきた。
「氷河は、じゃあ、僕のことをどう思ってるの」

瞬の捨て身の反撃は、氷河をたじろがせた。
ぎくりと顔を強張らせた氷河が、突然 満面の笑みをその顔に貼りつけ、瞬の機嫌の修復作業に取り組み始める。
「あ、いや。おまえのは可愛いぞ。俺は好きだ」
それでも拗ねた顔をしている瞬に、氷河は重ねて、
「本当に大好きだ」
と言った。

わざと視線を横に逸らしていた瞬は、急にへりくだった態度を見せ始めた氷河をちらりと横目で見てから、小さな溜め息をひとつ洩らしたのである。
歴史的文化遺産の前で、自分たちは何という話をしているのかと、少しばかり情けない気持ちになって。
それから瞬は なんとか気を取り直し、再度氷河に向き直った。
「ギリシャの考古学博物館にも男性の裸体像はたくさんあったけど、この像がいちばん綺麗だと思った。でも、この像、ギリシャではどっちかっていうと展示スペースの隅の方に他の雑多な展示品とまとめて押しやられていて――冷遇されてたの。今回、この像を展示品に選んだ人は見る目があると思う。こうして見ると、本当に綺麗な像だもの」

反論できるものならしてみろと言わんばかりの瞬の態度に、氷河は もちろんムッとした。
しかし、今 へたに反論すると本格的に瞬の機嫌を損ねてしまいかねず、それは氷河に 感情的不快と心情的不快以上の不都合をもたらしかねない。
だから氷河は賢明にも、瞬の関心をその像の上から逸らすために、別の方向から責めてみることにしたのである。

「あまり見とれていると像が動き出すぞ。ピュグマリオンの例もある」
自分の作った石像に恋をした男の例を出して、氷河は瞬の熱意を冷まそうとした。
それを聞いた瞬が、短く吹き出す。
「まさか」
「彫像にプロポーズして押し潰された男の話もある。戯れに彫像に愛を誓った男が、そのことをすっかり忘れて他の生身の女と結婚しようとしたんだが、結婚式の夜にやってきた彫像にベッドで押し潰されたという伝説がスペインにあったな」
「そんな伝説……」

氷河は、瞬から何らかの反論があるものと考えて身構えていたのだが、瞬は彼の予想を裏切った。
何ごとかを言いかけた言葉を途切らせて、瞬はただ その顔を僅かに歪ませただけだったのである。
ちょうど瞬たちの後方から5、6人、他の客がやってきたので、瞬は彼等に場所を譲るように 石像の前から移動した。
無言で氷河の手を引き、本来の順路に戻るかと思いきや、他の展示品には目もくれず出口に向かって歩き出す。
瞬の態度を氷河は怪訝に思いはしたのだが、ともかく 瞬の視界から自分以外の男の姿を消し去るという目的を達することだけはできたので、彼は文句も言わず、瞬に引かれるまま展示会場をあとにしたのだった。






【next】