「この像はひとりで勝手に動くの」 登場するなり沙織は、困惑顔の瞬と氷河を更に困惑させることを、挨拶も前置きもなく語りだした。 その不思議を、全く不思議と思っていないような顔で。 「ギリシャにあった時からよ。一晩に30センチも動いたことがあるんですって。だから、本当に傑作なのに大々的に展示することができなくて、本国の博物館では展示室の隅に押しやられていたの。でも、今回はたった1ヶ月間のことだし、もしかしたら場所が変われば動かなくなってくれるかもしれないという期待もあって、実験がてら日本に運んできたの。でもね……」 沙織の語る不思議に瞳を見開いている瞬に向かって、彼女は軽く肩をすくめてきた。 「彼、日本に来ておとなしくなるどころか、ギリシャにいた時よりも大胆に移動してくれて――今回のイベントで使用している警報装置は、展示品の重さの変化を認知するタイプのものなんだけど、それが毎晩鳴りっぱなし。警備員は眠れないし、気味悪がるし、昨日ついに一般客がいる時間に警報装置が鳴ってしまったので、展示を打ち切って、いったんここに引き取ったのよ。ここはへたな博物館より完璧なセキュリティシステムで守られているから」 「石像が一人で動く……?」 沙織の説明を にわかには信じられず、問い返した瞬に、沙織は真面目な顔で首肯した。 「ギリシャの博物館員に聞いたら、あの博物館には、この像と同じ場所から発見された、同じ石で作られたらしい腕があって、その腕のある方に動くのですって。その腕を側に置くと動かなくなる。でも、今回、その腕はギリシャに置いてきたから、彼は必死に西に向かって――彼のお国の方に移動し続けて……あのまま展示会場に置いていたら、会場の壁を突き破るくらいのことはしでかしていたかもしれないわね。――ほら、これを見て」 そう言って沙織が瞬たちの前に差し出したのは、数枚の写真だった。 問題の像がアテネの考古学博物館に展示されている様子が写っている。 頭部が失われているとはいえ、本来ならこの像一体のために専用の一室が用意されてもおかしくないほどの石像が、他の細々とした遺物たちと共に、いわゆる大部屋の中に立っていた。 彼の足元の台座の上に、腕が一本、全く不自然に置かれている。 「閉館後は必ずこうしておくのですって。そうすれば彼は動かないらしいわ」 沙織が指し示した写真の中の腕は、肘から下の部分しかなかった。 女性のものとも子供のものとも判別のつかない、しなやかな形状の右の腕で、細い5本の指が ほぼまっすぐ前方に伸ばされている。 その写真を見るなり、氷河は、 「瞬の腕だ」 と、呟いた。 「え?」 「これはおまえの腕にそっくりだ。この像と向かい合わせに――そうだな、1メートルくらい離れたところに立って、この腕と同じように右手を、この男の右手の方に伸ばしてみろ」 戸惑いつつも、瞬は、氷河の指示に従ってみたのである。 気に入りの像に向かい合い、その右手に向かって自分の右腕を伸ばす。 すると、そこには、今にも手を取り合おうとしている二人の人間の姿が出現した。 「何を持っていたのかが謎とされている像だったのだけど、彼は何かを持っていたわけじゃなくて、対になる像があったのね! その対の像の腕だけが、彼と一緒に発掘された――」 世紀の大発見を為し遂げでもしたかのように感極まった声をあげた沙織に、氷河が浅く頷く。 「多分、もう一体、おそらく こいつの恋人の像があって、こいつは、その側に戻りたいと駄々をこねているんだ」 「恋人の像とは限らないでしょ。なぜ、そう思うの」 瞬に問われると、氷河は、そんなことは考えるまでもないことだと言わんばかりの顔をして、きっぱりと断言した。 「俺がこの像だったら、他のどんな理由でも動かない」 「……」 氷河は既に、この石像が動く不思議を不思議とも思っていないようだった。 彼にしてみれば、それは当然で必然で、そして自然なことですらあったのだ。 「案外、氷河の推測が真実を言い当てているのかもしれないわね。魂が宿っていると言われても納得できるくらい素晴らしい像だもの」 「肝心のモノはちんけだが」 石像の恋人の腕と同じ形をしたものが、氷河の即頭部を力任せに殴りつける。 氷河は大仰に、痛みに耐える顔を作った。 「その腕を日本に運ばせようかとも思ったのだけど、展示期間も半分以上が過ぎたことだし、この像は、明日 他の展示品より一足先にギリシャに返すことにしたの。……彼の恋人の像は、未だ発見されず どこかに埋もれているのかもしれないし、もう砕けて形も残っていないのかもしれない。もしかしたら完成すらしていなかったということも考えられるわね。彼の近くから出てきたのは、その腕だけだったらしいから――」 それでも一人でいることは寂しいから、彼は彼の半身を求め続けているのだろう。 瞬は、その像を初めて、“氷河に似たもの”ではなく、自らの片割れを求め続ける恋人同士の一人として見た。 恋人を見詰める目を失い、恋人に語りかける唇を失い、それでも ただ一人の大切な人を求めて差しのべられる彼の腕。 今は何も掴んでいない彼の右の手を見て、瞬の瞳には涙がにじんできてしまったのである。 |