「逃げろ」 戸惑うシュンの手を引いて王宮の国王の私室に連れ込むと、ヒョウガは何の説明もせずに、金と着替えの入った袋をシュンの手に押しつけた。 「港に船を準備させた。一刻も早く、アテナの手の届かない場所に――アテナ以外の有力な神の庇護を受けている国に入るんだ。スパルタでもトロイアでもテッサリアでもどこでもいい」 「ヒョウガ……」 気が急くせいで声にも所作にも落ち着きのないヒョウガに、シュンはゆっくりと首を横に振ってみせた。 そんなことができるわけがない。 「僕、覚悟はできてるんだ。僕は――父に拾われた時、ほとんど死にかけていたんだって。赤ん坊の時に死んでいたんだと思えば、それ以後の時間は 神が哀れな孤児に恵んでくれた ひとときの幸福だったと思うこともできる」 「シュン!」 素直でない子供を叱りつけるようなヒョウガの怒声を、シュンは掠れた悲鳴で遮った。 「僕に、一人でどこに行けというの! 僕の大切な人はみんなこの国にいるのに……!」 「シュン……」 そんなことは、ヒョウガとて、改めて言われるまでもなく承知していた。 この国の王として生まれたことをヒョウガが神に感謝するとしたら、それは、シュンがこの国の内にいる限り、王の力で彼を守ってやることができるという、ただその一事に関してのみだった。 だというのに今、ヒョウガはシュンをこの国から去らせなければならないのだ。 「逃げるんだ。逃げてくれ」 「そんなことはできない。僕がそんなことをしたら、ヒョウガにも父にも迷惑がかかる。それだけならまだしも、僕の逃亡が神の怒りを買って、僕をこれまで育んでくれた この国に災厄を招くようなことになったら、僕ひとりが生き延びることには何の意味もない」 シュンはこれまでもいつも、大抵のことではヒョウガの我儘に折れるのに、絶対に譲れないと彼が信じることでだけは決して自分の意思を曲げなかった。 穏やかに やわらかい口調で、しかし、断固として否と言う――自分の命が失われるかもしれない今この時にも。 そして本当は、ヒョウガにも最初からシュンの答えはわかっていたのだ。 「……そう言うだろうと思った。おまえはいつも、自分より他人、個人より社会だ。そして、従容として運命を受け入れる。だが」 シュンがそういう行動規範を持つ人間であればこそ、シュンにはシュン自身を守ってやる存在が必要なのだ。 「俺は、どうあっても、おまえを死なせない」 「ヒョウガ……。僕はその言葉だけで十分……生まれてきてよかったと思うし、これまで生きてきた甲斐があったと思えるよ」 「十分? 十分だと !? 俺は足りない!」 ヒョウガは異様に苛立った大声で、シュンの静かな囁きを遮った。 幼い時から多くの時を共に過ごしてきたというのに、ヒョウガとシュンでは、そこが決定的に違っていた。 シュンは足るを知る人間で、ヒョウガは足るを知らない人間なのだ。 人の世を人の手で治めること、自身の力量を試すこと、失われた命を取り戻すこと――望むことが叶えられなくても、求めるものが手に入らなくても、ヒョウガがその現実に耐えていられたのは、シュンがいてくれたからだった。 生きることに不満ばかりを抱えているヒョウガが、自分には過ぎた幸運と思うことのできる唯一のことが、シュンに出会えたことだったのだ。 その唯一のものを、ヒョウガの夢の実現を阻害している神が、ヒョウガの手から奪い取ろうとしている。 神への譲歩にも、限度というものがあるではないか。 怒りにかられて――それ以上に、突然思いがけない災厄に襲われてしまったシュンと自分自身とを哀れんで――ヒョウガはシュンを強く抱きしめた。 こんなことを、こんなふうにしたくはない――。 ヒョウガは、シュンが今 自分の手の中にあることを決して喜んではいなかった。 「女神は、美しくて清らかな人間をご所望だそうだ。汚れたものは生け贄になる価値もない」 「ヒョウガ……」 「俺の言う通りにしてくれ。でないと俺は――おまえの命を守るために、おまえを汚さなければならなくなる。おまえに罪を犯させ、堕落させることをしなければならなくなる」 ヒョウガの手がシュンの短衣の裾から腿の内側に忍び込む。 ヒョウガが自分に何をしようとしているのかがわかるほどには、シュンも大人になっていた。 「いいのか。この手がおまえの身体を侵しても」 「ヒョウ……ガ……」 もしここで、自分がその身をヒョウガに任せ 神の望むものでなくなることで、アテナが例年通りの貢ぎ物を受け取ってくれるのであれば――それだけならば――、シュンは大人しく――むしろ喜んで――彼の腕の中に我が身を委ねていたことだろう。 自らの望みを叶えられなかったアテナが、ヒョウガやアテナイの国に怒りを向けないことが期待できるのであれば。 しかし、ギリシャの神々は、従順な人間に対しては慈悲深く寛大であるが、人間の傲慢に対しては仮借ない罰を与える存在であることを、見習いに過ぎないとはいえ神官であるシュンは知りすぎるほどに知っていたのだ。 「だめ。僕がこの国を出るわけには――」 「そうしてくれないと、俺はもっと神の怒りを買うことをしなければならなくなると言っているんだ!」 「ヒョウガ……」 ヒョウガは自分の上に神の怒りが降ってくることを恐れてはいないのだろうか。 いくら人間界への神々の干渉を煩わしく思っているヒョウガでも、そんな容易な推察ができないはずはない。 ヒョウガは本気で、彼の幼馴染みの命を救うために、自身の命とアテナイの民の命とを神の前に投げ出そうとしているのだ――。 そう思い至った途端にシュンは、ヒョウガの激情に 狂気と恐怖とを覚え、その衝撃のために自らの身体の自由を見失った。 |