「今、グラードの中で最も成績の振るわない部門ってどこなんですか」
突然瞬に問われた時、沙織は、瞬が『財団に貢献する』ことを考えて そんなことを尋ねてきたのだとは思わなかった。
瞬もアテナの聖闘士の一員、財団への貢献という美名を冠した金儲けに意欲的になれるはずはないし、不振部門の再興という作業は 確かに財団への大きな貢献になるが、それは本来なら財団内外のコンサルティング会社に対応策の考案を依頼して行なうべきことで――つまりは素人が手を出すようなことではないのだ。

「成績不振部門? そうね。メンズファッション部門かしら。ここ数年、鳴かず飛ばずで きているわ。売り上げが落ち込んでいるわけじゃないんだけど伸びもせずに、もう何年も平行線。つまらない部門に成り果てているの」
瞬の反応は、沙織の常識という名の思い込みに真っ向から挑むものだった。
瞬は、沙織からの返答を聞くや、さほどの間を置かずに、
「じゃあ、僕たち、その部門の成績をあげます」
と言ってのけたのだ。

「え?」
「僕たちで、メンズのデザイナーズブランドを立ち上げたいんですけど」
「は !? 」
沙織だけでなく、その場にいた全員が瞬の提案に唖然とした。
彼等は最初、それを一種の冗談だと思い、その後 瞬の目が笑っていないことを確認して、瞬は気が狂ったのかという疑いの念を抱いた。

「デ……デザイナーズブランド――って、聖衣のデザインでもするつもり?」
「それでもいいですけど、需要がないでしょう」
突飛な提案をしてのけた瞬は、だが、常識的な判断力は失ってはいないらしい。
瞬は真顔を保っている。
正気で言っているように、沙織には見えた。

「紳士服の……」
それでも沙織は――否、瞬が正気のように見えるからこそ、沙織は――不安げに呟くことになったのである。
「子供服ならまだしも、紳士服部門は、グラードだけじゃなく市場そのものが停滞しているのよ。日本の男性の80パーセントは当たり障りのない釣るしのスーツを年間に決まった着数だけ購入するの。そして、ファッションに最も大きな関心を抱いている年代の若者はお金を持っていないわ」

「だから、つけいる隙があると思うんです。要するに、1年間に3着しかスーツを買わない人たちに、もう1着欲しいと思わせればいいだけのことでしょう。ターゲットは、ファッションへの興味を失っていなくて、それなりにお金も持っているヤングアダルトにして」
正気な瞬は、本気でもあるらしい。
夢物語を語るにしては具体性のある瞬の言葉に、彼の仲間たちは、これまた本気で青ざめた。

「瞬、冷静になれ。つけいるも何も、俺たちはシロートだ。洋服なんて作ったこともない」
「瞬、おまえ、沙織さんより無茶なこと言ってるぞ! 自分が言ってることの意味がわかってんのか !? 」
この場合は、紫龍と星矢の言い分の方が瞬のそれよりも常識的だったろう。
だが、瞬はそんな仲間たちの常識を一蹴してのけた。
「知らないことは勉強すればいいでしょ。絶対にできないと人に思われていることをやり遂げるのは、人生における最も大きな喜びだって言うよ。星矢、そういうの好きじゃない。僕たちは奇跡を起こすのが仕事のアテナの聖闘士なんだし、僕たちにできないことなんてないよ。僕たちは1人じゃないんだから」


――実現は困難と思われる夢のために真面目に頑張ることの価値が 日本人から失われてしまったのは、いわゆるスポーツ根性マンガである『巨人の星』・『あしたのジョー』に代わって、荒唐無稽なSFボクシングマンガ『リングにかけろ』が少年誌上に現われた時だと言われている。
その頃から日本人は『苦しさに耐えて努力すること』に共感できなくなり、努力は必ずしも報いられるものではないという諦めを身につけることになったのである。
星矢は確実にそれよりもあとの世代の少年だったが、しかし彼の辞書に『諦め』という単語は載っておらず、彼の人生で最も価値のあるものは、『希望』と『挑戦』という二つの概念だった。

「うお〜っ !! 」
半ば挑発するような瞬の言葉に、星矢は乗り気になってしまったのである。
室内に咆哮を響かせる星矢の横で、彼ほど単純でない者たちは ひたすら困惑の様相を呈していた。






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