「で、瞬が興味を持ってるからって、氷河も頑張って読んでるわけだ」
瞬が重苦しい表情でラヴクラフトの『未知なるカダスを夢に求めて』を再読している その向かい側にあるソファで、氷河が同じくラヴクラフトの『闇に囁くもの』を読みふけっている。
氷河が難しそうな顔をしているのは、小説の内容が難解だからではなく、その物語世界が決定的に彼の好みに合わないせいなのだろう。
そんな不気味なものたちが闇の中で暗躍する話が、春の花に恋する男の好みに合致するはずがない。

「宇宙的恐怖小説ね……」
氷河も瞬も全く読書を楽しんでいるようには見えない。
瞬のあと追い読書をしている氷河はともかく、瞬の意図が、星矢にはまるでわからなかった。
たとえ単純明快で ありきたりでも、読後感の爽快な勧善懲悪の物語を読んでいる方が、よほど読書を楽しむことができ、それはまた希望を持って生きていくための糧にもなるだろうに――と思う。
それが無理なら、この際 恋愛小説でもいい。
瞬を 恋愛小説を読む気分にさせることができずにいる氷河に、星矢はじれったさを覚えていた。

その氷河が、『闇に囁くもの』を読了したらしい。
彼は、ハードカバーの裏表紙を閉じて、重苦しく吐息した。
「大丈夫かよ、氷河」
星矢が、憂鬱そうな顔の氷河に尋ねる。
瞬に恋愛小説を読ませることはできないが、氷河は氷河で氷河なりに 瞬の身(というより心)を気遣い努めていることは、星矢も承知していた。

「恐怖のインフレーションというか、恐怖のための恐怖を書いているとしか思えんな。健全な精神と肉体を持つ俺には、今いち肌が合わん」
そんなことは、氷河が『闇に囁くもの』を読み終える前からわかっていた。
星矢が知りたいことは、そんなことではなかったのだ。

「もう10冊くらいは読んだんだろ。何が瞬のお気に召したのかはわかったのかよ?」
「――そうだな」
星矢の質問に対する氷河の反応は、どこか微妙に曖昧なものだった。
星矢は、同じ質問を瞬に向けた時に返ってきた答えが『よくわからないけど、面白いような気がする』だったことを思い出したのである。
氷河は、当の瞬自身にもわかっていないのかもしれないことを探ろうとしているのだ。
たとえ正解に辿り着けたとしても、それが正しい答えだと認めてくれる者はいない。
氷河の態度が曖昧なものになるのは致し方のないことなのかもしれなかった。
氷河が自分の導き出した答えに自信を持っていたとしても。

それでもとにかく、星矢は、恋する男の直感に期待したのである。
誰よりも深く瞬を理解したいと願っている男なら、瞬自身がわかっていないことにも気付くことがあるかもしれない――と。

その 恋する男が導き出した答えは、
「瞬は、より大きな恐怖を欲しがっているんだろう――と思う。人智を超えた恐怖を」
というものだった。
「そんなの手に入れて何の得になるんだよ。夜、恐くて寝れなくなるだけなんじゃねーのか」
恐怖小説を読む人間が恐怖を求めているのは当然のことである。
氷河の口から出てきた答えが あまりに当たり前すぎて、星矢は正直 気が抜けた。
星矢が知りたいのは、瞬が恐怖を求める理由だったのだ。

が、星矢は、そう言ってしまってから、突然妙案を思いついたのである。
恐怖小説を読んだせいで 夜眠ることができなくなってしまった瞬の隙を衝いて、氷河が瞬にあれこれ色々してしまえば、不愉快な現状を打破することができるのではないだろうか、と。
そうすれば瞬は恐怖を追い求めるどころではなくなって、あまり健康的とは言い難い暗黒世界に入り浸ることをやめるだろう。
突然自分の中に天啓のように降ってきた前向き かつ健全なアイデアに気をよくして、星矢は早速氷河をそそのかしてみようとした。
星矢のその目論みを、肝心の氷河が挫く。

気負い込んで 瞬を襲う提案をしようとした星矢を、氷河は、
「少なくとも、ハーデスが非常に明るい神だということはわかった。一つの成果だな」
という言葉で遮ったのだ。
思いがけない見解を聞かされて、星矢は一瞬 呆けてしまったのである。
死者たちの国である冥界の王が明るいとは。
虚構であるがゆえに際限なく不気味な世界の恐怖より、“死”の方が明るいとは。
さすがの星矢も 氷河のその意外な言葉に驚き、せっかくのナイスアイデアを口にする機会を逸してしまったのである。

「すぐに飽きると思っていたんだが……」
一心に恐怖の世界の物語を読みふけっている瞬に、氷河は視線を投げた。
その視線を感じ取るどころか、瞬は、彼の仲間たちが彼の身を案じていることにすら気付いていないふうである。
氷河は口許を僅かに歪めて、瞬の身を案じる同志の方に向き直った。

「ラヴクラフトの著書に描かれているものは、絶対的に人間と異なる価値観を持ち、人間とは決してわかりあえない強大な存在が この宇宙には在るという恐怖だ。読み手は――瞬は――そういうものに世界を滅ぼされるのなら諦めもつくという安心感のようなものが得られるかもしれない。それが得と言えば得か……」
「安心感? 得体の知れないものに滅ぼされることが?」
ナイスアイデアを忘れた星矢が、反射的に氷河に問い返す。
氷河はゆっくりと頷いた。
「そういう滅び方は、地球に隕石がぶつかる事故のようなものだから、瞬も心が安らぐんだろう」
「?」

不健全な本のせいで、瞬だけでなく、氷河までが訳のわからないことを言い出した――。
そう考えるしかない氷河の発言に、星矢は思いきり顔を歪めたのである。






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