気を失ってしまった瞬は、ラウンジの長椅子に横たえられていた。
その周囲には、瞬の仲間たちと、氷河によって召還された 強大な力を持った女神がいる。
瞬の冷たい額に手を置いて、氷河は抑揚のない声で誰にともなく呟いた。
「瞬は理解できるものが恐いんだ」
声はさほどでもないが、瞬を見詰める氷河の眼差しは何かひどく痛ましいものを見ているように つらそうだった。
「というより、中途半端に理解できることを恐れている――と言った方がいいか」

「俺、全然意味がわかんねーんだけど」
星矢は、本当に全く完全に意味がわからない顔をして、仲間にぼやいたのである。
瞬が倒れた経緯は氷河から説明を受けたのだが、それでも星矢にはわからなかった。

アテナの聖闘士の中で最も常識的な人間であるところの瞬が(星矢はそう思っていた)、虚構の世界の神を召還してやろうという氷河の戯れ言を真に受けて恐怖するのは、確かにおかしなことである。
しかし、それは、最近の瞬のホラー小説への入れ込みようを見続けていた星矢には、ありえないことでもないような気がした。
虚構の物語を読んで恐怖を覚える者は数多くいるのだから、氷河の常軌を逸した言動を、瞬が恐れることも不思議ではない。

しかし、瞬が倒れた直接の原因は氷河の馬鹿げた茶番のせいではなく、瞬が見慣れた女神の姿を見たせいだというのである。
アテナこと城戸沙織は、ある意味では確かに 非常に恐ろしい存在ではあったが、彼女が人間というものに寄せる愛情と信頼を知っている者には、慈愛に満ちた優しい女神であるはずだった。
そして、瞬は、誰よりもその事実を知っているはずなのである。
それが――。

「ハーデスの依り代にさせられて、人間を超越していると思っていたものの心がわかってしまったことが直接の引き金になったんだと思う。人類の滅亡を是とするハーデスの意図に、瞬は納得も共感もしなかったが、それでも瞬はハーデスの思考を理解することはできてしまったんだろう」
瞬が倒れた理由がわからないせいで 今ひとつ緊張感を欠いた様子でいる星矢に、氷河が低い声で告げる。
星矢は更に大きく首をかしげた。
そんなことが、どうして こういう結果を生むことになるのだ。

「そして気付いた――いや、瞬は思い出したんだ。これまで瞬が闘ってきた敵が、人も神も、相手の考えていることを理解しようと思えば理解できる者ばかりだったということに。瞬の敵は、価値観が違うせいで相容れないだけで、賛同はできなくても理解し合おうと思えば理解し合える者たちだった。なのに、理解し合うことはできず闘いになった。それが瞬の恐怖だ。瞬が守ろうとするものに危害を加える神や敵を理解できること――」

「なんでそんなことが――」
“敵”の心や考え方を理解できることが、それほどの恐怖だろうか。
敵の気持ちが全くわからなければ、それは心のない天災を相手に戦うようなもので、自分や自分が守ろうとするものに害を為す相手を 敵と認識することもできない。
そうなれば、戦う決意を為すこともできず、時には 最初から戦うことを諦めてしまうようなことにもなりかねない。
それでは、アテナの聖闘士たちは、何も誰も守ることができないではないか。

「俺たちが闘ってきた敵よりも もっと理解できるはずの人間――瞬の同胞であるはずの人間ともわかり合えないこと、瞬と同じように平和を望み 生きることを望んでいるはずの人間たちの言動が、自分のそれとは真逆の方向を志向していること、その考えを認められないこと、そういう人間がいること――瞬は、その恐怖を、もっと不気味で理解できない恐怖で打ち消そうとしたんだろう」

「それで、クトゥルフ神話か」
氷河が面と向かって語っていた星矢より先に、紫龍の方が事態を把握することができたらしい。
彼は顎を引くようにして浅く頷き、青白い頬をして意識のない仲間に気の毒そうな目を向けた。

「今、この地球上には人類を5回は滅ぼせるほどの核兵器が存在するそうだぞ。その気になれば理解し合えるはずの人間がそんなものを作っている。瞬にはそれが理解できない。人類に関心のない得体のしれない神なんかより、自分と同じ人間の方が恐い。そんなものたちより、いっそ全く理解し合えない化け物たちと親しんでいる方がいいと、瞬は逆説的に思ったんだろう。瞬は虚構の世界の化け物たちに、心の平安を求めていたんだ」

「では、おまえに好きだと言われて恐がっていたのは――」
「理解できないものだけがいれば心安んじていられると思っていたところに、そんなことを言われて驚いたんだろう。――確かに、人と人が完全に理解し合うことは不可能だが、それでも人がその不可能に挑もうとするのは、まあ、いわゆる愛や思いやりというものがあるからで、瞬はそのことを忘れていた。理解することを放棄してしまえば楽になれると思っていたのに、そんなものを思い出させられたら、たまったものじゃない」

そのつらい事実を瞬に思い知らせる決定的なものが、アテナ――人を愛し信じる神の存在だった――ということなのだろう。
少し荒療治がすぎたと、氷河は自身の為したことを悔いているらしい。
氷河には、瞬を傷付け苦しめる意図は全くなかったのだ。

「少しは……瞬も俺のことを好きでいてくれたのかもしれないな。そのことを思い出してくれたのかもしれない」
氷河の声と表情には、瞬を恋する者の切なさのようなものがにじんでいた。

瞬の心を真実 安らげてやるためには、瞬が真に追い求めているものを――人々がわかり合い、互いを思い遣って平和に共存できる世界を――実現してやらなければならない。
それが無理なら、せめて その可能性を明示してやらなければならない。
だが、瞬を恋する男は、瞬を恋する心の他に 瞬に与えられるものを何ひとつ持っていないのだ。
氷河は、己れの無力がじれったくてならないのだろう。

無力というなら、それはアテナも同様で、瞬を見詰める彼女の眼差しもまた、氷河と同じように ひどく やり切れなさをたたえたものだった。
同じものを求める同志の いたわしい姿に、彼女は唇を引き結ぶことになったのである。

「ハーデス、色々やってくれるぜ」
瞬の苦悩を、星矢はまだ漠然としか理解できていなかった。
その星矢が、忌々しげにハーデスの名を呟く。
今、星矢に最もわかりやすく明確な姿を持つ敵はその名の持ち主だった。
瞬の真の“敵”は姿も名前も持っていない。
だから星矢は、冥界の王の名を出して仲間の苦悩を思いやることしかできなかったのである。
わかりやすい敵というものは、星矢には有難く、また便利な存在でもあった。






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