瞬が気がついた時、そこには氷河しかいなかった。――氷河だけがいた。 その場に沙織の姿がないことに、瞬は安堵したのである。 彼女の姿を見るなり気を失ったことへの うまい言い訳を、少なくとも今すぐ考える必要はないのだ――と。 さほど長い間 意識を手放していたわけではなかったらしい。 室内は未だ明るく、瞬が横になっている長椅子の脇に椅子を引いてきて腰をおろしている仲間の金髪は、相変わらず光を受けて輝いている。 その眩しいものを視界に映した後、一度固く目を閉じてから、瞬は長椅子の上に身体を起こした。 氷河に何事かを言われる前に 何か軽い言葉を口にして 場をごまかしてしまいたいと思ったのだが、瞬はそうするのに適当な言葉を何ひとつ思い浮かべることができなかった。 無言で氷河を上目使いに見上げると、彼は、案外に穏やかな声で、 「ホラー小説なんて、おまえには似合わないぞ」 と、まず言った。 考えようによっては それは、彼の勝手なイメージを他人に押しつけるような発言で、その気になれば瞬はいくらでも彼に反駁できたのだが、瞬はそうすることをしなかった。 反駁せずに黙っていれば、氷河はなぜそれが自分に似合わないのか、その理由を語ってくれるに違いない。 瞬はその理由が知りたかったのである。 瞬自身、自分がなぜ 暗黒の恐怖でできている世界に惹かれてしまうのか、その理由がわかっていなかったから。 「人間が――」 光の中にいる仲間が口を開く。 瞬は沈黙を守って、続く言葉を待った。 「一部の人間が、暗黒の恐怖を好み、暗いものに惹かれるのは、そういう状態が楽だからだ。眩しいものを見詰めていると苦しい。光は、自分の弱さや醜さや、他人の弱さも醜さも、文字通り白日のもとに さらけだすからな。そういうものを見ているとつらくなる。だが、闇を見ている分には、人は疲れない。苦しまない。そこには つらさもない」 「……」 氷河の言葉は、瞬には思いがけないものだった。 彼がなぜ急にそんな突拍子もないことを言い出したのかと、瞬は怪訝に思った。 普通の人間は こういう時、悪趣味に耽溺している友人に、『そんなくだらない荒唐無稽な世界に入れ込むのは、恐い思いをするだけで無益だからやめろ』と、そんなことを言うのだろうと、瞬は思っていたのだ。 そして、『おまえは闘いに疲れて心を病み、通常の判断ができなくなっている』と、そんな言葉が続くものだとばかり思っていた。 アテナの聖闘士がアテナの聖闘士に言う言葉としては、それが妥当で、それだけでも自分は仲間を気遣う氷河の心に感謝できるに違いないと、瞬は信じていたのだ。 「闇を見ていることは楽なんだ。闇というのは、人間の醜さや弱さで できている。闇の中では自分の姿も見えない。自分や世界を変えようとする勇気を持たない臆病者や怠け者が、好んで暗部を見たがるんだ。自分自身や現実をまっすぐに見ることのできない弱い者が、自分の醜さを隠してくれる闇の中に逃げたがる」 瞬は沈黙した。 楽になるために、自分がこんな不気味な世界に耽溺しているのだとは、瞬は考えたこともなかった。 しかし、瞬は同時に思い出したのである。 クトゥルフ神話の創造主ともいうべきラヴクラフトは、自身の家系の遺伝的狂気に非常な恐れを抱いていた――ということを。 彼は、自らの狂気への不安を忘れるために、あるいはせめて その恐怖を生産的行為に転換したいと考えて、宇宙的恐怖というものを創造したのではないだろうか。 彼の作った世界は、彼の死後、明るく建設的な精神を持った者たちの玩具にされてしまったが、本来はそれは 暗闇の世界から逃れたいという願う男の悲鳴だったのだ。 「僕は怠け者で臆病者なの」 苦い口調で、瞬は氷河に尋ねた。 「おまえはどう思う」 「そんなふうに……卑怯で臆病な人間にはなりたくないと思うよ」 それが逃避だということを、瞬は意識していなかった。 あるいは、むしろ意識すまいと思っていた。 ただ 氷河の言う通り、不気味な暗黒の世界を見詰めていることは、確かに瞬の気持ちを楽にしていた。 人間の理解を超えたものが この世には存在するのかもしれないと思う――思える――ことによって、瞬の気持ちは安らいでいたのだ。 それは逃避だと 氷河が言うのなら、光の中に立つ仲間が言うのなら、そうだったのかもしれないと思う。 その事実を仲間に思い知らせるために、彼は光に包まれた女神を 仲間の前に召還してくれたのだ――と、今なら瞬にもわかった。 しかし、光だけを見詰めていることが苦しいというのも事実である。 太陽のようにまっすぐで真っ当で正しいもの。 弱さを持つ人間はそういうものになることはできない。 人は、光そのものにはなれないのだ。 たとえ氷河でも、人間である限りはそういうものであるはずである。 その事実が氷河はつらくないのだろうか? と、瞬は訝った。 光そのものになることはできないのに 光の中に我が身を置くこと、そして光を見詰め続けること――それは彼にとっては苦しいことではないのか? と。 闇を見詰め、闇を認めようとすることの方が、瞬は はるかに苦しくなかったのだ。 「氷河は――」 「俺は怠け者なんかじゃない。勤勉な人間だ。眩しいものから、いつも目を逸らさずにいる」 そう告げる氷河の瞳は、瞬を見詰めていた。 彼にとって“光”というものは、今自分が見詰めているものだとでも言うかのように。 買いかぶりだと思うのに、瞬はそれでも、氷河の眼差しが嬉しかった。 光が少しでも自分の中に残っているのかと、この矛盾に満ちた世界に それでも光はあるのだと、氷河の瞳を見ていると信じられるような気がしてくる。――瞬は信じたかった。 そして、その光の名を“希望”というのだと、思うともなく思う。 瞬はふいに無性に泣きたい気持ちになった。 自分もこの世界も闇を内包し、あるいは闇に包まれているのだから、いっそその闇に埋もれてしまいたいと、仲間たちから離れ闇に身を任せてしまいたいと、そんなことを考えていた自分にも、光のかけらくらいは残っているのかもしれない。 そう思えることこそが、瞬にとっての希望で、その希望は泣きたいほどに切ないものだった。 「光と闇とでは、どっちが深いと思う? 光の方が無限だ。光の方が深い。光の方が掴み取ることは困難で、理解することも困難なのかもしれない。そして、闇に身を投じるのは簡単だ。誰にでもできる――努力しなくてもできる。だが、闇の中にあるのは、おまえを楽にはしてくれるが幸福にはしてくれないものばかりだぞ」 恐怖の中に逃げることは無意味。 暗闇の中に逃げることも無意味。 それは、狂気の中に逃げようとするようなものである。 クトゥルフ神話の神々は、人と人の世に狂気と破壊をもたらす存在として表されていた。 瞬は、それらの異形のものたちを、理解できるにも関わらず認めたくない人間や、光そのものでない自分を見詰めることほどには 恐ろしくないと感じていたから、その世界に安らぎを感じていたのだ――。 |