『氷河だけが楽をして目的のものを手に入れるというのは 不公平というものだわ』
氷河は、沙織にそう言われたあとの記憶がなかった。
「まさか……な……」

まさか――とは思う。
自分が この見知らぬ場所にいることが、楽をした聖闘士に苦労させることを企てたアテナの何らかの作為的な操作によるものだとしても、現実問題として ここにヤマタノオロチを出現させることは不可能である。
この地上に存在したことのある最大の動物スーパーサウルスですら、その体長は33メートル、到底 山を8つも覆えるほどの図体は有していない。
記紀に記されている通りのオロチが出現したら、ここはバーチャル世界と考えて差し支えないだろう。

それ以前に、万々が一 ここが古代日本だったとしても、ギリシャの神である沙織には そこは管轄外の領域であるはずなのだ。
ペルセウス・アンドロメダとスサノオ・クシナダの英雄譚の類似は言うに及ばず、オルフェウスの冥界行とイザナギの黄泉の国巡り等、ギリシャ神話と日本神話には似通った物語が多く、多神教の神話世界の根源は一つなのではないかと思えるところがあるのは事実である。
ギリシャ神話にもヤマタノオロチによく似た多頭の蛇ヒドラがいる。
してみると、ギリシャの神々の中で最も卓越した女神であるところのアテナは、日本神話でいうなら、さしずめアマテラスというところだろうか。

――そんなことを考え始めている自分に気付き、氷河は慌てて頭を大きく左右に振った。
そんなことはありえない。
そんなことはありえないのだが、ともかくこうして現実に、氷河が見知らぬ場所にいるのもまた事実だった。

これが沙織の企みなら、ここがバーチャルな作り物の世界でも、本当に日本神話の世界だったとしても、ヤマタノオロチを倒さないことには 自分は元の世界に帰ることはできないのかもしれない。
だが、ここがバーチャルな作り物の世界でも、本当に日本神話の世界だったとしても、この世界の住人でない者がヤマタノオロチを倒してしまったら、本来オロチを倒すはずの神スサノオの立場がないというものである。
なにより氷河は、瞬でないもののために命を賭ける気にはなれなかった。

「瞬……」
その名を声に出して呟き、氷河は突然不安にかられたのである。
まさかとは思うが、瞬までがこの世界に飛ばされてきているということは ありえることだろうか。
ありえる――ことのような気がした。
むしろ、それは必然であるような気がした。

英雄ペルセウスに救われるアンドロメダ姫と、スサノオノミコトに命を助けられるクシナダ姫。
その共通点は、今更改めて思い起こすまでもない。
そして、瞬はアンドロメダ座の聖闘士なのだ。
更に、これが沙織の陰謀なのであれば、彼女は白鳥座の聖闘士に苦労をさせるためのエサの必要性を十二分に承知しているはずだった。

そう思い至って、氷河は大いに慌てることになったのである。
限りなく100パーセントに近い確率で、瞬はこの世界にいるだろう。
異世界で、おそらくはたった一人で、瞬は今 心細い思いをしているに違いない。
氷河は何よりもまず、瞬の居場所を突きとめなければならなかった。
理屈を考えれば、瞬はクシナダ姫の側にいるだろう。
瞬がこの世界にいないのなら、それに越したことはないが、もし瞬が――瞬もこの世界にいるのであれば。

意を決して、氷河は、人里を探すために――瞬のいる場所に辿り着くために――日本昔話の風景の中に向かって歩き始めたのである。






【next】