山と山の間には、谷――それなりの幅のある平地――があった。 そこには水田があり、水田の側には、当然のことながら 田に水を供給する川がある。 晴れた夏の日のこととて、さほどの水量はないが、それでも水争いの必要はないほどの水を、その川は有しているらしい。 水田は青々と生気に満ちた苗を その胸に抱いている。 川のほとりに、一人の男が立っていた――川を睨んでいた。 髪を頭の中央から左右に分けて両耳の辺りで先を輪にして緒で結んだ、いわゆる 身に着けているのは、前合わせの短く白い上衣―― 日本神話を題材にした絵本等でお馴染みのあのスタイルである。 もはや疑う余地はなかった。 ここは古代の日本なのだ。 沙織が広い土地を手に入れ、そこに大掛かりなパノラマを作り、役者にコスプレを命じたのでもないかぎり。 川の側に立つ人物は、 腕力でものごとを解決するような野蛮人ではなさそうである。 聖闘士である氷河は、もちろん、彼が野蛮人でも恐れる必要はなかったが。 彼はこの世界でも小宇宙を燃やすことができた。 「ひえ〜っ!」 その優男に集落のありかを聞こうとして 川に向かって歩き出した氷河の背後から、ふいに素頓狂な声が響いてくる。 氷河が振り向くと、そこでは、農夫らしき2人の男が腰を抜かしていた――古いギャグマンガのように尻餅をついていた。 髪や服装は川のほとりに立つ優男と大同小異だが、農夫たちは いかにも触り心地の悪そうな麻でできた上衣を身にまとっており、 歳は40半ばを過ぎているだろうか。 実際にはもう少し若いのかもしれなかったが、日に焼けた顔が、今ひとつ彼等の年齢をわかりにくいものにしていた。 「かかかか神様が下りてきているー!」 「神?」 彼等が何を見てそんなことを言い出したのかと、氷河は寸時訝ったのだが、彼等が神と呼んで指差しているものは、どう考えても この世界に投げ入れられた白鳥座の聖闘士その人のことだった。 金色の髪をした人間など、彼等はこれまで一度も見たことがなかったに違いない。 氷河は、面倒なので彼等の誤解を解かなかった。 というより、誤解させたままでおいた方が何かと都合のよいことになりそうだと考えて、あえて彼等の誤解を誤解のままにしておくことにしたのである。 「あそこに立っている細い男は何者だ。何をしている」 「東の方から来た よよよよよよそ者でごぜーます。あの のっぺりした顔で、いつのまにやらアシナヅチ様のところのクシナダ様に取り入りやがりまして、アシナヅチ様にクシナダ様と夫婦になりたいと申し出たんでごぜーます。アシナヅチ様は、毎年起こるこの川の氾濫を治めることができたら、クシナダ様を嫁にやってもいいと言われて、それ以来、奴めは ずっとああして川を睨んでるんでごぜーます」 いきなり目当ての姫の名を出されても、氷河はあまり驚かなかった。 いかにも この土地の土着の民ではない様子をした男が、ヤマタノオロチの正体であるかもしれない川を意味ありげに睨んでいるのだ。 彼が特別な役目を負って この場所にいる人間だということは、氷河には容易に察することができた。 「名は」 「スサノオ……とか」 「――」 その答えを、氷河は予想していた。 予想はしていたのだが、それでも氷河は、意外の感を抱かずにはいられなかった。 川のほとりに立つ男は、スマートといえば聞こえはいいが、要するに あまりたくましさの感じられない体躯の持ち主だったのだ。 『荒ぶる神スサノオ』のイメージとは遠くかけ離れている。 ともあれ、彼がクシナダ姫の居場所を知っている人間であり、彼女と懇意にしている男であることは確かである。 氷河は、相変わらず腰を抜かしたままの農夫たちに軽く右手を振ることで謝意を示し、この世界の主人公である男の側に歩み寄っていった。 |