クシナダ姫の家は、この地方では相当の力を(つまりは土地を)持つ豪族の一門であるらしい。
氷河が案内されたのは、かなり立派な造りの館だった。
屋敷の周囲を築地松ついじまつの生垣で囲まれた敷地の内には、建物が5つ6つはある。
もちろん板葺いたぶきの、氷河の目には素朴としか映らないものだったが、統一政権が樹立される以前の日本の住居としては相当のものだろう。

おそらくクシナダ姫の親は水田も多く持っているに違いない。
斐伊川の氾濫を鎮めることは、この館の主の財産を守ることになるのだろう。
その奇跡を実現させることができたなら、クシナダ姫の父アシナヅチは、娘の1人や2人は喜んで異邦人に差し出すかもしれない。
奇跡が実現されれば、約束は守られそうだった。

クシナダ姫が住まっているのは、その生垣で囲まれた建物の中でも最も奥まったところにある建物らしい。
スサノオは、いかにも姫の許に忍び込み慣れているといった歩みで正門を素通りし、館を囲む築地松の生垣の途切れた箇所から敷地内に潜り込んだ。
「クシナダは、あの館の中に――」
「氷河っ!」

スサノオがクシナダ姫の居場所を知らせる言葉を言い終える前に、氷河の胸に飛び込んできたものがあった。
それが何なのかを確かめることもせず――確かめる必要もなかったが――氷河がそのものを抱きしめる。
声も服装も氷河の慣れ親しんだもの、何より氷河の名を知っていて、ためらいなく その胸に飛び込んでくる人間を、氷河はただ一人しか知らなかった。

「瞬、やっぱりここにいたのか」
右も左もわからない異世界で、何はともあれ、瞬と出会えたことに氷河は安堵した。
氷河に名を呼ばれた瞬が、ふいに涙ぐむ。
「氷河には、僕が見えるの !? 」
「? 何を言っているんだ」
見えないものを どうやって抱きしめるのだと、瞬の肩や背の感触を確かめながら、氷河は瞬に問い返した。

スサノオは氷河の姿を知覚している。
瞬も同じように、この世界の住人たちに知覚できるものとして この世界に存在するのが道理というものではないか。
瞬の姿だけがこの世界の住人たちに見えていないというのなら、ある意味 それは好都合なのかもしれなかったが。

しかし、瞬の涙ながらの訴えの意味するところは、そういうことではなかったらしい。
氷河の背に押しつけている指先に力を込めて、瞬は氷河の胸の中で幾度も小さく左右に首を振った。
「他の人には、僕がクシナダ姫に見えてるらしいんだ。違うって言っても、誰もわかってくれなくて……」
「なに?」
それはいったいどういう魔法なのだろう。
少なくとも氷河の目には、瞬は彼の知る瞬のままに見えていた。

いずれにしても、その魔法は、既に恋という名の別の魔法にかかっていたスサノオにだけは作用しなかったらしい。――完璧には。
スサノオの目にも、氷河には瞬に見えるものがクシナダ姫の姿に見えているのかもしれなかったが、それが彼の恋するクシナダ姫でないことは、スサノオにはわかったのだ。

「恋する者の目で見ればわかるのかもしれないな」
そう呟いてから、氷河はまず この奇妙な魔法を解くことが先決だと思ったのである。
クシナダ姫とは違うものだと思っているとはいえ、外見はクシナダ姫に見えるものが 自分以外の男にしがみついているのだ。
氷河と瞬を見詰めるスサノオの表情は、複雑怪奇を極めていた。

誰に対して、そしてどちらに向かって、その願いを告げればいいのか見当もつかなかった氷河は、適当に虚空に向かって 彼の望みを口にした。
「アテナ。いや、アマテラスか。どっちでもいい。俺はヤマタノオロチを倒す。お望み通りに苦労というものをしてやろう。だから、瞬を俺に、クシナダ姫とやらをこの男に返してくれ」

氷河が言い終わる前に、瞬は2人になっていた。
――そう表現するしかない現われ方で、その場に女が1人 出現した。
「スサノオっ!」
「クシナダ!」
つい数分前に氷河と瞬がしたのと全く同じことを、この世界の恋人たちが繰り返す。
スサノオに抱きしめられた女は、朱色のきぬと丈の長いスカートのようなを身に着けていた。
これまた各種書籍でよく見掛ける古代日本女性のあの衣装である。

願いが叶うところを見ると、この不思議はやはりアテナの企みであるらしい。
アテナはこの世界の女神アマテラスと同根・同一のものであるか、そうでなかったとしたら2人の女神はつるんでいるのだ。
事ここに至って、氷河は、アテナの望むこと――瞬に関わることで“苦労”をすること――を覚悟した。
ご褒美は目の前にあるのだ。
本来彼が生きている世界で、瞬とあれこれできるようになるためには、瞬のために“苦労”をしてアテナを納得させる以外に道はなさそうだった。

氷河がそんなことを考えている間にも、この世界の恋人たちは2人の世界に浸っている。
クシナダ姫は、肉感的な印象の強い女性だった。
あまり運動らしい運動をしていないのか、瞬のような敏捷さや緊張感をその身に備えておらず、氷河の目には、ひたすら軟らかい生き物のように見えた。
氷河の好みではなかったが、ある種の男たちの心を惹きつける要素を持った女だとは、氷河も思ったのである。

その女が、彼女の恋人をかき抱き、切々と事情を訴えていた。
「ああ、会いたかった! 今朝方から、どういうわけだか、私は 私の思う通りに身体を動かせなくなって、口もきけなくなっていたの。午前中あなたがここにいらした時もそうだったの。あなたは不審がって そのままお帰りになるし、私はどうすればいいのかと――」

クシナダ姫の姿をした瞬は、よほどクシナダ姫の意に沿わぬことをしでかしたらしい。
氷河は抱擁し合う2人の横で、低い声で瞬に尋ねた。
「瞬、おまえ何かしたのか。まさかスサノオ相手に大立ち回りでも……」
「僕に触るなって言っただけだよ」
「……黙って殴られる方がずっとましだな」
瞬のその言葉に、スサノオはさぞかし大きな衝撃を受けたことだろう。
恋焦がれて、自分もまた恋されていると信じていた相手にそんなことを言われてしまったら、氷河でも世をはかなみたくなるというものだった。






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