地形や地質の確認を兼ねて斐伊川の周辺をざっと見てまわり、氷河と瞬がクシナダ姫の館に戻ってきたのは、既に夕刻と言って差し支えない時刻だった。
例の築地松の切れ目からアシナヅチの館の敷地内に足を踏み入れた途端、ほとんど喚声じみたクシナダの声が、2人の耳に飛び込んでくる。

最初、その声の意味するところがわからなかったらしい瞬は、一瞬 ハトが豆鉄砲を食らったような顔になった。
次に、その声がどういう種類の声であるのかを理解して、頬を真っ赤に染める。
氷河は氷河で、苦虫を噛みつぶしたような顔になった。

この世界の恋人たちに2人だけの時間を与えるべく 氷河と瞬が場を外してから、ゆうに3時間以上の時間が過ぎていた。
その間、2人は、実に勤勉に恋人たちの務めに励み続けていたらしい。
「氷河……」
瞬は言うべき言葉を見つけられないのか、ほとんど泣きそうな顔をしている。

今度 不安の溜め息をついたのは、瞬ではなく氷河の方だった。
こんな好き者の男とつるんで大事業を成し遂げなければならないとは。
氷河は前途に多難のあることを予感せずにはいられなかったのである。

“荒ぶる神”スサノオノミコト。
氷河は、これ以上ないほどに嘆かわしい思いで、スサノオノミコトの枕詞の意味を理解したのである。
「奴のどこが暴れん坊なのかわかった」
「え?」
「奴は俺と同じところが暴れん坊なんだ」
首をかしげた瞬に、当然のことながら詳細説明は行なわず、氷河は館の外から内に向かって大声を張りあげた。
「いい加減にしろっ。オロチを倒せば、そんなことはこれからいくらでもできる。川の治水計画を練る方が先決だろう!」

奇跡的に、氷河の怒声は互いを確かめ合うことに夢中になっていた恋人たちの耳に届いたらしい。
4、5分の気まずい沈黙のあと、館の板の扉が開き、荒ぶる神スサノオが気恥ずかしそうな顔をして、氷河たちの前に再登場した。
「ははは。まあ、その何だ。クシナダがクシナダなことをしっかり確かめておかないと不安だったもので」
言い訳がましい言葉を口にするところを見ると、今が緊急事態だということくらいは、彼も自覚できているらしい。
照れたような素振りで氷河と瞬を館の内に招き入れたスサノオは、改めて観察すると かなり人のよさそうな顔をしていた。
某所が暴れん坊なことを除けば、彼は特に粗暴なわけでも冷酷なわけでもない、普通の人好きのする男に見えた。

そして、スサノオは、愛しのクシナダ姫をその手に取り戻して、やる気満々ではあるようだった。
「策はあるのか」
板の間にあぐらをかいた氷河が、少々 険のある声で尋ねると、スサノオはにわかに真面目な顔になった。
少し遅れて身仕舞いを整えたクシナダ姫が室内に現われ、控えめな様子で部屋の隅に端座した。

「斐伊川は天井川なんだ」
「なに?」
「天井川ってなに?」
今はクシナダ姫の側にいたくなかった瞬が、横から、苦労を義務づけられた男たちの会話に参加する。
氷河は氷河で、瞬をスサノオに近づけたくなかったので、その腰を引いて、瞬を自分の横に移動させた。

「天井川ってのは、上流から流されてきた砂礫が堆積すると、川床が周辺の平面地よりも高くなる川のことだ。そういう川が氾濫すると、水は行き場を失って長時間引くことがない」
「私は、堤を築いて、水田が押し流されないように川の流れを変えるしかないと思っている。こういうふうに」
相当の好き者のスサノオも、これまで ただ手をこまねいて川を睨んでばかりいたわけではなかったらしい。
対座する氷河と瞬の前に、彼は彼が自分で調査し描いたものとおぼしき 斐伊川周辺の地図を広げた。

地図は、紙というよりは布のような凹凸のある素材のものに墨で描かれた絵地図だった。
図面に描かれると、斐伊川と付近の河川や谷は、なるほど八つの頭と尾を持つ大蛇おろちが横たわっているように見える。
その絵地図の上にスサノオが指し示す 新しい川の流れは、氷河には非常に妥当なものに思えた。
スサノオは、某所が暴れん坊な他は至って理知的な男らしい。
クシナダ姫も、案外 某所の勇猛果敢さだけに惹かれてスサノオを受け入れたわけではないのかもしれない――と、氷河は思った。

「しかし、堤を築くには多くの人手が必要だ。よそ者の私が呼びかけても、この里には力を貸してくれる者はいない」
「――要するに、アテナは、俺に力仕事をしろと言っているんだな」
独り言のように呟いてから、氷河はスサノオに向かって言い切った。
「その仕事を俺がする」
「僕も手伝うよ」
すぐに瞬が続ける。
2人の協力者を得たスサノオは、しかし、あまり嬉しそうな顔は見せなかった。

「……無理でしょう。私1人だったところに2人増えたところで――」
彼がそう考えるのは当然のことだが、氷河は既に 彼への協力とこの事業を成功させることを決定事項にしてしまっていたのだ。
「俺は異世界の神だと言ったろう。この世界の人間20人分くらいの仕事は簡単にできる」
そう告げた口で、だが、氷河は瞬の土木工事参加を禁止したのである。
「ペルセウスと一緒に化け鯨と戦うアンドロメダ姫の話なんて聞いたこともない。俺一人で十分だ。おまえはクシナダ姫の側にいろ」
「でも……」

氷河に20人分の仕事ができるというのなら、瞬にも同様の力があった。
それを使わない手はないではないかと、瞬は氷河に食い下がろうとしたのである。
それを押しとどめたのはスサノオだった。
「いくら何でも、君のような子の力を借りるわけにはいかない。君はクシナダの側にいて、彼女を力づけて慰めてやってください。クシナダはこの館から出ることも許されず、不安でいるのです――よそ者の私を受け入れてしまったせいで……」

その口振りからして、どう考えても彼は瞬を少女だと思っているようだった。
色々考えると、彼等に真実を告げるのはやめておいた方がよさそうである。
クシナダ姫が1人きりで不安に苛まれていないと思っていられることが、スサノオからも不安を取り除くことになるというのなら、そのために努めた方がいいのかもしれない。
結局瞬は、クシナダ姫の館の内に部屋を一つ与えられ、そこで苦労人2人の仕事の完成をクシナダ姫と共に待つことになったのだった。
この時代、女たちの住まう館と男たちの住まう館はしっかりと分けられているらしく、氷河の分の部屋はクシナダ姫が父親に掛けあって別の建物に用意してくれた。
スサノオは、アシナヅチの館からほど近い場所に掘っ立て小屋を建てて、そこで暮らしているらしい。

この時代・この場所での衣食住を確保して、いよいよ“苦労”を義務づけられた2人の仕事は始まったのである。――始まるはずだった。






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