諦めがつくと、人の心は落ち着くものである。 自分の人生に欲がなくなると、人の目には自分の人生以外のものが 鮮明に見えるようになる。 絶望と優しさは全く本質の違うものであるが、両者にはどこか似た部分があった。 「もし、ここで俺が死んでも、瞬にはすぐに俺のことは忘れてほしい。瞬には、ニジンスキーの妻のように、意地で過去の時間にしがみついていてほしくない。帰らぬ者を思って過ごす時間など、瞬には無意味で無駄だ。一緒に幸福でいられない時間は何も生まない」 「そんなことはないと思いますけど。あなたは今、あなたの恋人と一緒にいませんけど、たった今だって、あなたは瞬さんを知る以前とは違う気持ちでいるはずでしょう。こう、出会う前には知らなかった幸福な気持ちとか、切ない気持ちとか、そんなものがあるんじゃないんですか。一緒に過ごすことのできない時間だって、二人にとっては十分に価値のあるものだと思いますが」 たった一人(一枚)で砂漠をさまよっていたノシの王子様が、生意気な分別口調で、恋人たちの時間を語る。 だが、氷河は、彼に対して、もはや激しい立腹は覚えなかった。 「おまえ、ノシのくせに、なに知ったようなことを言ってるんだ。ノシが恋をすることがあるとも思えないが」 日本の初夏の陽光。 真昼の光を照り返す白い砂。 風はほとんどなく、広い砂漠に影を作っているのは、その仕事を放棄したセスナの機体と氷河自身のみ。 本来の氷河なら暑さを不快に感じ始めて当然の環境だったのだが、今の氷河はなぜか現状を五感で不快に感じることはなかった。 砂の上にあぐらをかき、視線の高さをできるだけノシのそれに近付ける。 氷河の決めつけに“ノシの誇り”を傷付けられたのか、ノシの王子様は、気が狂った男の膝の前で一度大きく跳ね上がった。 「ノシだって恋くらいします!」 「ノシとか?」 同じ姿形をしたノシとノシが抱き合っている図を想像して、氷河は自分の狂気の程に苦笑した。 誰に対しても好意を抱き、それゆえ誰からも好かれる瞬が、仲間内でも我儘この上ない男の恋心に応えてくれたのである。 世の中に ありえない恋など、それこそ ありえないものなのかもしれないかった。 「ノシが恋をする相手は人間ですよ。本来はただの紙切れに過ぎないノシに心を吹き込むのは人間なんだから、それが当然でしょう。恋の相手はノシによって様々です。贈り物を贈る人だったり、受け取る側の人だったり――。贈る人が心を込めてプレゼントを贈れば、ノシはそれが嬉しい。贈り物を受け取ってた人が喜んでくれれば、ノシも嬉しくなる。そんなふうな心の交流がですね、ノシの身体に、人を思う心を吹き込むんです」 「それがノシの恋か。サラダオイルや素麺の詰め合わせに貼りつけられるだけの紙切れのくせに、生意気な」 ノシの恋がそういうものなのだとしたら、それは、白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に恋をするのと同レベルで分不相応である。 氷河は自嘲気味に笑って、ノシの王子様をからかった。 氷河のからかいを真に受けたらしいノシの王子様が、長六角形の身体の腰の辺りをひねって、不愉快の感情を露わにする。 そして、ノシの王子様は“ノシの誇り”を大上段に語り始めた。 「ノシを侮辱しないでいただきたい。そもそもノシとは、昔 大変貴重な保存食だった『のしアワビ』から来ているんです。アワビの肉を薄くはぎ、それを 体長10センチほどの紙切れが喋る喋る。 もしかしたら彼は、その由緒の正しさにも関わらず、人間に軽んじられることの多いノシの境遇に、長いこと憤りを抱き続けていたのかもしれなかった。 「いいですか、サラダオイルの方が添え物なんです。贈り物の本質は、贈り物を受け取る人の末永い幸福を願う気持ちを形にしたノシにこそあるんだ。最も意味あるものなのに、我々は贈られるとすぐに捨てられてしまう。ノシこそが贈り物の本質なのに、最も大切なものなのに、誰も僕たちを見ようとはしない。きっと人間の目はみんな節穴なんだっ!」 氷河自身がそんな人間の中の一人だっただけに、反駁のしようがない。 小さな身体でいきりたつノシの王子様の姿を眺めているうちに、氷河は少々申し訳ない気分になってきてしまったのである。 「なのに……おまえたちは、その節穴の目しか持っていない人間に惚れるのか」 「そうです。ノシの恋は大抵は報われません。でも、ノシに心を吹きこむのは、贈り物を贈る人とそれを受け取る人の気持ちなんです。ゴミ箱の中で、僕たちは、もう二度と会えない人の思い出を胸に、やがて処分されてしまうんです。僕たちが恋した人と一緒にいられる時間は ほんの僅かだ。あなたは1週間も瞬さんと幸福な時間を持つことができたんでしょう。なにを贅沢なことを言っているんです!」 ノシの王子様が、憤然とした様子で氷河を責める。 氷河は、彼に対して沈黙を守り続けた。 たかが紙切れの非難に反論の一つもせず、軽侮の色も示さない氷河を見て、ノシの王子様は自分の激昂を恥じたらしい。 それまで弾丸のような勢いでノシの高貴を語っていたノシの王子様は、僅かにうろたえ、やがて 項垂れ、 「僕はそんなあなたが羨ましいですよ」 と、小さな声で呟いた。 自分を正気ではないと自覚しつつ、氷河は、この誇り高いノシの王子様に、同情と一種の親しみを覚えることになったのである。 |