「事情により星の子学園の保父さんを任される事になった氷河と瞬。子供に懐かれる瞬に大人気なく焼きもちを焼く氷河」 saboさん、きっちり基本をおさえたリクエスト、どうもありがとうございます! はい。そういうわけで、今回のお題は『焼きもち』です。 ラブストーリーの薬味として必要不可欠――とまでは言いませんが、最重要要素の一つと言っていいものだと思います。 しょっぱなからどうでもいいことですが、私は小学生の頃、学級会(この響きが昭和;)でキャンプの計画が議題になった時、「カレーの薬味って何がある?」という質問で先生に指され、「ニンジン、ジャガイモ、タマネギ」と答えたことがあります。 つまり、その時、私は『薬味』の意味を知らなかったのです。 当然先生は、「それはちょっと……。薬味っていうのはね〜云々」と、薬味について説明してくださった。 思い出すたび恥ずかしくなる思い出なんですが、今考えてみると、これって正答というものがない質問――というか、何でも正答になる質問ですよね。 私の友人に、「カレーを食べる時には、コーヒーゼリーが不可欠」という人がいます。 ニンジンやポテトのスティックをカレーの薬味にする人だっていないとは限らない。カレーの薬味は福神漬けとラッキョだけとは、誰にも言い切れないのです!!(そんなに力説しなくても……) とはいえ、カレーの薬味といえば、多くの人が福神漬けとラッキョを思い浮かべることもまた、厳然たる大事実。 そして、『嫉妬』『焼きもち』は、カレーの薬味としての福神漬け・ラッキョ並みに、ラブストーリーの代表的な薬味。 はい。そんなわけで(?)、焼きもちなのでございます。 んーと。 固く信頼し合い、互いを疑うこともできないほど強く結ばれた恋人たちには、焼きもちを焼く必要も暇もないことでしょう。 そういうのって、恋愛の完全形として大変美しいと思いますが、そういう状態が果たして楽しいものであるかどうかは大いなる疑問。 かのジャン=ポール・サルトルは、 「我々の間の愛は必然的なものだ。だが、偶然の愛を知ってもいい」 と言って、生涯のパトーナーと決めたシモーヌ・ド・ボーヴォワールと結婚も同棲もせず、お互いの恋の話(つまりは浮気話)も赤裸々に打ち明け合ったとか。 そんなふうに嫉妬心なんて感じていないように振舞う二人の間には、本当に嫉妬心がなかったのだろうか? と疑ってしまうのは、私が凡百の徒だからなのでしょうか。 & サルトルにとってボーヴォワールは、人生のパートナーではあっても恋愛の対象ではなかったのではないか。 たまたまボーヴォワールが女性だったので、仕方なく 男女の関係になりはしたけれど、サルトルは本当は 『ボーヴォワールが男だったらよかったのに』と思っていたのではないか。 ――なーんてことを考えてしまうのは、私が根っからのやおいオンナだからなのでしょうか。 私は、行きすぎた焼きもち・嫉妬心は、もちろん傍迷惑なことだと思いますが、ほどよい焼きもちはあった方がいいんじゃないかとも思うのですね。 それを態度に出すかどうかは別問題として、それが一般的で自然なのではないかと思う。自分の好きな人が他の人と仲良さそうにしているのを見て、全く気持ちが揺れ動かないのは、その恋が既に冷めかけているから――ということも多いのじゃないかと思います。 誰かを好きになった ごく最初の頃には もう好きになった相手しか見えなくて、焼きもちとか感じてる暇もない。実際に付き合うようになったり、その予感を覚えたりして、恋愛段階が少し進んで周囲が見回せるようになった頃に初めて顔を出してくるものなのじゃないかと思うのです、焼きもち。 いちばん恋をしている感じがする時期に――つまりは、恋がいちばん楽しい時期に――表出してくる感情なのじゃないかと思うのです、焼きもち。 (嫉妬が慢性化すると、恋も忘れるほど大変なことになりそうですが) ところで、恋愛に限ったことではありませんが、「何・誰に嫉妬するかで、その人のレベルがわかる」とはよく言われること。 作中でも書かせていただきましたが、人は自分と同程度、もしくは、ちょっと上のレベルの人(自分がそう思っている人)に嫉妬を覚えるようにできているもののようです。 ですから、その人の嫉妬の対象を見ることによって、その人が自分をどういうレベルの人間だと考えているのかがわかるという仕組みが形成される(もちろん、それは客観的なレベルではなく、主観的なレベルにすぎないわけですが)。 あと、類似品に、「誰を褒めるかで、その人のレベルがわかる」、「何を笑うかで、その人の人柄がわかる」というのがありますね。 人が失敗するのを見て笑う人と、心配する人とでは、その人となりは相当違うでしょう。 「誰を褒めるか」云々は、日本国には割りと『人を褒めること』を美徳とする風潮があって、本心に関わらず誰でも何でも褒める傾向があるので、ちょっと判断の材料にはしにくい。 それとは逆に、『嫉妬』という感情を醜いものと見なす日本人は、胸中では嫉妬を感じていても、その気持ちを隠そうとすることが多いので、これまたそういったことの判断材料にはなりにくいもの。 で、そういうものであるところの『嫉妬』『焼きもち』という話題になると、私が必ず思い出すのがマンガの神様・手塚治虫先生。 石ノ森章太郎先生が『ジュン』を発表した時、手塚先生が嫉妬心から「あれは漫画ではない」と批判したエピソードは有名です。 (手塚先生は、後日その事実を告白し、石ノ森先生に謝罪しています) これって、本当にすごいことですよね。 石ノ森先生も、まさかマンガの神様が自分に嫉妬するなんて考えもしなかったでしょうが、当時 社会的には自分よりずっと格下のマンガ家だった石ノ森先生に嫉妬できる手塚先生がすごいと、私は思うのです。 手塚先生は、要するに、「自分の作品は最高、自分は偉い」と慢心していなかったからこそ、石ノ森先生に嫉妬できたわけですから。 言ってみれば、その嫉妬は、手塚先生の向上心の表われ。 自分が成した功績に驕ることなく、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』を、手塚先生は地でいったのです。 それを言動にしてしまったことには、手塚先生の影響力を考えると かなり問題があったとも思いますが、でも、結果として、その事実を正直に告白・謝罪することで、石ノ森先生の株も上がることになったわけですしね。 嫉妬・焼きもちという感情は、決してマイナスの感情ではなく、間違った方向に流されさえしなければ、むしろ有益ですらある感情だと、私は思います。 逆に、嫉妬心を感じなくなったら、その人は危険。 そういうわけで、今回は、氷河には盛大に焼きもちを焼いてもらいました。 馬鹿と嫉妬は使いよう。おかけで、私も話を1本書くことができました。 saboさん、有益なお題をどうもありがとうございました! |