『余は約束を守る』 そこには闇―― 一面に白い闇が広がっていた。 その闇の中に、低く静かな、しかし異様なほどの重圧感をたたえた声が響いている。 どこから聞こえてくるのかは、わからない。 聞く者を不安な気持ちにさせる、声そのものが闇でできているような、それは ひどく不吉な響きを持った声だった。 『そなたの命には限りがある。だが、余の命は永遠だ』 いったい、この声の主は誰だ? ――いや、何だ? 永遠の命を持つ者と、それは言った。 声の主は、では人間ではないのか? その闇のような声は、俺に向かって話しているのではないようだった。 他の誰か――おそらくは人間――に向かって話しかけているらしい。 『この機会を失っても、数百年後にはまた余の意に沿った清らかな魂を持った人間が地上に生を受け、余はその者と契約を交わすだろう。今、そなたの肉体を使って この地上を滅ぼすことをやめたとて、余には失うものは何もないのだ。そなたとの約束を反故にするような卑劣を働く必要がない』 俺は、人と人でないものとの語らいを盗み聞いているんだろうか? その 人でないものは何だと自問した俺が思い浮かべた単語は、『神』そして『悪魔』だった。 『その数百年の猶予の代わりに、そなたはそなたの最も大切なものを余に捧げなければならない。それができるか? そなたの存在も、そなたの苦しみも、そなたの悲しみも知らぬ者たちの命を守るために?』 人でないもの――の正体は、やはり悪魔なのだろう。 神なら、人に代償を求めるはずがない。 俺がそんなことを考えていると、聞き覚えのある声が――だが、それが誰の声なのかはわからない――ささやかな光のような声で、 『覚悟はできています』 と答えた。 悪魔が、圧倒的な闇の声で、辺りに嘲笑を響かせる。 『そなたにとって最も大切なものは、そなたの命か? そうではあるまい』 嘲笑の木霊がすべて消え去る前に、悪魔は高らかに宣言した。 『そなたの最も大切なものを、このハーデスが貰い受けた!』 途端に、微かな悲鳴をあげて、確かにその闇の片隅にあったはずの光が消え去る。 同時に、白い闇は、真の漆黒になり果てた。 ささやかな光――と俺が思っていたものは、実は強大な力を有したものだったらしい。 その光が消えたことで、世界は真の闇に沈むことになった。 右も左も上も下もわからない闇の中にひとり残され、俺は途方に暮れていた。 ハーデス。誰だ、それは。 ハーデスと名乗るものと話していたのは誰だ。 いや、それ以前に、俺は誰だ。 俺は、自分の名前さえ思い出すことができなかった。 |