その時、俺の後ろに、静かな空気の流れが生じた。
星矢は、決して、好んで俺を珍獣扱いしていたわけではなかったらしい。
奴はすぐに ほっとしたような顔になった。
「あ、瞬。氷河が変だぞ。沙織さんが聖域から戻ってくるってさ!」
どちらが重要で、先に伝えるべきことなのかを迷ったような星矢が、その二つの事柄を一緒に並べ立てる。
俺の背後で、“瞬”の声がした。

「氷河が……変?」
それは、子供のような声だった。
星矢の明るいガキっぽい声とは違う、素直で澄んでいて――ああ、きっと、何百年も何千年も人の世を見詰めてきた天使が こんな声をしているに違いない。
俺は、振り返って その声の主の姿を確かめることができなかった。
どういうわけか、そうすることを俺の心は恐れていた。

その不思議な声に、だが星矢は何も感じないらしい。
奴は平気でガキっぽい仕草で、その声の主――瞬――に大きく頷いた。
「俺の名前は氷河なのかとか、瞬てのは誰だとか、寝ぼけたこと言ってんだよ」
「……」
“瞬”は、俺の後ろで黙り込んだ――ようだった。
俺は勇気を振り絞って――正直、びくびく怯えながら――後ろを振り返り、初めてまともに“瞬”を見た。

瞬――は、華奢な少年だった。
歳はせいぜい15、6。へたをすると13、4にも見える。
そして、彼の子供のように大きくて澄んだ瞳は、百年も生きた老人のように悲しげな表情をたたえていた。
これは人間か? と、まず俺は思った。
これが俺と同じ人間なのか――と。
瞬という名のその少年は、何かが常人と違っていた。
手足は細くて、顔の造作は『可愛い』としか言いようがない。
そんな外見から、だが、俺が感じるのは圧倒的な美しさだった。
外見は、本当に小さな子供なのに。
これはいったい何という生き物だ?

俺は軽い目眩いを覚えた。
全身の血が凍りついたように、身体を動かすことができない。
その不思議な生き物が、まっすぐに俺を見上げ、見詰めてくる。
優しい印象にも関わらず、獲物を射る狩人のような痛みを含んだ眼差しで 俺を見詰めた瞬は、静かに俺に尋ねてきた。
「氷河、僕のことを憶えてないの」
責めるような声じゃなかった。
ただ淡々と――いや、悲しげに、事実を確かめようとする声。

「自分のこともわからない」
渾身の力を振り絞って、俺はどうにか そう答えることができた。
「俺が誰なのかも忘れちまったのかよ?」
俺と瞬の間に割り込んできた、あまり緊張感のない星矢の声が、少し俺の身体を自由にする。
「おまえは星矢だろう」
「あっちは」
「紫龍」
「じゃあ、それは」

星矢が指差したものは“瞬”だった。
「……」
俺が答えられずにいると、瞬は悲しそうに その目を伏せた。
「瞬と言うのか」
俺は胸が詰まるような気持ちで そう尋ね、答えを待たずに瞬から目を逸らした。
苦しくて――息ができないほど苦しくて、俺はまともに瞬を見ていられなかったんだ。

「おまえ、自分の名前はわかってんのか」
「氷河……とおまえに呼ばれたから、そうなんだと思っているが」
何とも頼りない俺の返事に、星矢が渋い顔になる。
そして奴は、助けを求めるように紫龍の方を振り返った。

星矢にお鉢を回された紫龍は、しばし何事かを考え込む素振りを見せてから、掛けていた椅子から立ち上がることなく、彼の目の前にあったグラスを指差した。
「これが何かわかるか」
「福建省武夷山産の岩茶大紅袍――ウーロン茶だ」
最近 紫龍はウーロン茶というと、その銘柄しか飲まない。
歴代の中国皇帝だけに飲むことのできた究極の銘茶だとか言っていた。

「これを飲んだ時、星矢はこの味を何と評した?」
「中国四千年の埃の味」
「それを聞いて、瞬は何と言って場をとりなした?」
「……」
「おまえ自身は、このお茶の味をどう言った?」
「……」
そんなことを訊かれても、俺には、そのお茶を飲んだ記憶がない。
記憶がなくても――俺がそんなものを、たとえ誰にどれほど薦められたのだとしても飲むとは思えなかったが。

俺が沈黙した訳を、紫龍は正確に読み取っているようだった。
埃の味のするお茶を愛飲している男が、軽く顎をしゃくる素振りを見せる。
「おまえはもちろん、このお茶を飲んだ。なにしろ淹れてくれたのが瞬だったんだからな。そして、『こんな美味いお茶は飲んだことがない』と、心にもないことを言ったんだ」
「……」
まあ、そういう事情があったのなら、そんな白々しいことを言った俺の気持ちもわからないではない――が、いったい俺という男はどういう男だったんだ?
俺の胸中には、自分自身に対する不審感が、ふつふつと湧き始めることになった。

中国四千年の埃のウーロン茶の件を一通り話し終えると、紫龍はそれによって彼が至ることにできた結論を口にした。
「氷河は、自分と瞬に関することを忘れているようだな」
「いちばん肝心のことじゃん!」
やたらとまだるっこしい紫龍の話の進め方に、星矢は焦れていたらしい。
腹にためていたものを一気に吐き出すように、奴は室内にがなり声を響かせた。
そして、瞬を振り返り見る。

「瞬、何とか言ってやれよ! こんなシツレイなこともないぞ!」
「いいんだ。氷河、ごめんね」
「なんで、おまえが謝るんだよ!」
星矢の一方的な非難には 俺も反論の一つ二つを返してやりたいところだったのだが、瞬の謝罪は道理に合っていないとは、俺も思った。
瞬は、俺に謝らなければならないようなことはしていないのだ――多分。






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