それはともかく、紫龍が導き出した結論は正しいのだろう。そう俺は思った。
俺は、何でも憶えていた――すぐに思い出した。
城戸邸がどういう場所なのかということ、ここで起居を共にしている仲間たちのこと、俺がアテナの聖闘士であること、アテナの聖闘士として俺が経験してきた幾多の戦い。
亡くなった母のこと、師のこと、俺の生い立ち。
聖域に向かったアテナが、俺たち青銅聖闘士に聖域への立ち入りを禁じ、そのことによって新たな戦いの予感を感じた俺たちが、この城戸邸に集結し待機していたこと。
俺は、瞬のことは忘れているのに、瞬の兄のことは憶えていた。

そんなふうに――何もかもを憶えているのに――俺は、俺自身のことと瞬のことだけは、どうあってもはっきりと思い出すことができなかった。
こんな記憶の失い方があるものだろうか。
特定の人間のことだけを――瞬のことだけを――忘れるということは、ありえることだと思う。
確か、特定の期間、特定の事物のことだけを忘れる部分健忘という脳疾患があったはずだ。
しかし、それに伴って自分自身のことまで忘れるという現象はありえることなんだろうか。
まるで、瞬のことを忘れるために自分のことまでを忘れる必要があったのだとでもいうかのような、奇妙な記憶の欠如――。

「沙織さんが戻ってくるのなら、新たな戦いは起こらないってことだろうから、当面の問題は氷河だな」
星矢が、“いちばん肝心のこと”を忘れてしまった俺を睨みつけながら、妙に偉そうに顎をしゃくる。
そして星矢は、まるで幼稚園に入園したばかりの子供に『あいうえお』を教える保育士か何かのように、少々大袈裟な身振りを交えて、とんでもないことを俺に教示してくれた。
「いいか。瞬はおまえの恋人だったの。瞬と同じ男のくせして、瞬にイカれたおまえは、瞬の迷惑を顧みず瞬に迫りまくって、同情を引くような真似までして、瞬を自分のものにしたんだ」

「なに……?」
星矢の言葉は、俺には寝耳に水のことだった。
部分的にとはいえ記憶を失っているんだから、それが寝耳に水のことでも驚くには値しないことだったのかもしれないが、『おまえは桃から生まれた桃太郎だ』と言われても、俺はそこまで驚くことはなかっただろう。
星矢の言葉は、俺にとっては、おとぎ話よりありえない、まるで狂人の妄想のような話だったから。

「あの、綺麗なものが……俺の……?」
嘘であってほしいと思ったわけではない。
そんなことを望んだわけじゃない。
ただ俺は、俺が星矢にからかわれているんだと思っただけだったんだ。
そんなことはありえない――と思っただけだった。

俺の独り言のような呟きを聞いた星矢が、奇妙に顔を歪める。
そして、改めて立腹したように、星矢は声を荒げた。
「そーだよ! その綺麗な瞬が、おまえみたいな変人の恋人なんてもんやってくれてたのに、それを忘れるとは何ごとだよ!」
「俺は変人だったのか」
「そんなことも忘れてんのかよ!」

星矢は再び その声を荒げたが――俺は、本当に自分のことも忘れていたんだ。そして、憶えていた。
子供の頃、この城戸邸で過ごした短い時間。
聖衣を手に入れるために耐え抜いた修行のこと。
殺生谷、白銀聖闘士たちの襲撃、十二宮での戦い、アスガルドでの戦い、ポセイドンとの戦い。
すべてを憶えているのに、その記憶の中に、瞬と俺自身の姿だけがない。
敵や、仲間である星矢や紫龍の戦い振りは憶えているのに、俺自身に関する記憶はひどく曖昧でおぼろだった。
命懸けの戦いのことすら忘れているのに、自分が変人だったのかどうかなんてことを、俺が憶えているはずがない。

いずれにしても、俺が“いちばん肝心のこと”を忘れているのは事実で、だから俺は星矢に反論できなかった。
星矢と紫龍の目には、それが、俺にしては しおらしい態度に映ったらしい。
彼等は短い嘆息を洩らすと、そんな俺に仕方なさそうに話してくれた。

俺が、瞬と共に、どんな戦いを戦ってきたのか。
追う鹿だけを見て山を見ないような戦い方をする俺を、瞬がどんなふうにカバーしてくれていたのか。
俺の命を、瞬が命懸けで救ってくれたこと。
どこか常人とずれた常識の持ち主だった俺が引き起こす日常生活の数々のトラブルを、瞬がいつも丸く収めてくれていたこと。
最後に、奴等は、瞬がいなかったら俺は周囲に敵ばかりを作っていただろうと、確信に満ちた態度で断言した。

星矢たちの話を聞く限りでは、俺はいつも瞬のお荷物だった。
にも関わらず、俺は随分と――そういう言葉の使用が認められるなら――亭主関白だったらしい。
星矢たちの話を聞いているうちに、俺は俺自身に腹が立ってきた。

「瞬も律儀だからさー。一度おまえとそういう仲になったからにはって、そりゃ健気におまえの世話して、おまえの変人振りの尻拭いして、毎日フォローに大変で、なのにおまえときたら、それを当たり前のことみたいに受けとめて、感謝してる素振りも見せなくて――」
「いや、感謝はしていたんじゃないか? 瞬に何かしてもらうたび、この馬鹿は、多分 礼のつもりで瞬にキスしてやりたがっていたようだったし」
「なんでそれが礼になるんだよ! 氷河がいい思いするだけじゃん!」

星矢の憤りは義憤だと、俺は思った。
そんな恥知らずな男がいたら、俺はそいつを殴り倒していただろう。
「本当に、俺がそんなことをしていたのか? それは、男として恥ずべきことだと思うが」
「その恥ずかしいことを、おまえは得意顔でやってのけてたの!」
「おまえが瞬に惚れていたことを忘れるのも許し難いが、おまえがどれだけ瞬に愛されていたのかを忘れるのは――瞬があまりにかわいそうだ」
二人の話が事実なら、瞬に向けられる紫龍の同情もまた至極尤もなことだ。
そんな厚顔無恥な男に健気に尽くして、そして瞬は何も報われていない――のだから。

だというのに、瞬は俺を責める素振りを見せなかった。
それどころか“氷河”を庇いいたわるような眼差しで俺を見詰め、言った。
「いいの。氷河だって忘れたくて忘れたわけじゃないんだし、僕は、いつだって氷河といられるのが嬉しかったんだから」
「瞬、でもさ」
「いいんだ。氷河は悪くない」
「おまえはよくても、俺の腹の虫が収まらないんだよ!」

瞬が“氷河”を庇うことは逆効果だったらしい。
多分星矢は、瞬に対する“氷河”の態度と、“氷河”に対する瞬の振舞いを、以前から あまり快く思っていなかったんだろう。
瞬が不平不満の類を言わずにいるから、星矢はその気持ちを抑えていられたに違いない。
図らずも こんな事態が生じたせいで、抑えていた憤りが一気に噴出した――という感じだった。






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