俺が、言ってみれば今は“見知らぬ人”である瞬を問い詰めることができたのは、聖域から戻ってきた沙織さんの同席があったからだったかもしれない。
俺が厳しく詰問しても、あくまで黙秘を貫こうとしていた瞬は、俺が少しつらそうな顔を見せると、すぐに折れてしまった。

それが俺に“叱られるようなこと”だという認識はあったらしく、こうなった経緯を語る瞬の声音は もどかしいほど たどたどしく、声も小さく、その言葉は幾度も途切れた。
途中で俺が口を挟んだら瞬が怯えて黙り込んでしまいそうだったから――俺は、瞬の語る言葉を、俺にしては辛抱強く静かに聞いてやった――と思う。

途切れ途切れの瞬の説明を繋ぎ合わせると。
数日前、俺が瞬に関する記憶を失ったことを自覚した日の前日の午後、真昼間。
珍しく俺抜きで一人で庭に出ていた瞬の前に黒衣の男が現われ、その男は、この地上に住む人間たちをすべて滅ぼすつもりだと、瞬に宣告した――らしい。
だが、おまえだけは生き延びられるようにするから安心していろ――と、その黒い幻影のような男は、行ない正しきノアに情けを垂れるヤハウェさながらに予言したのだそうだった。

その闇のような男の尋常ならざる力を感じとった瞬は、男の言葉を信じないわけにはいかず、そんなことはやめてくれと訴えた。
人の世がこれからも保たれるなら どんなことでもするからと。
黒衣の男――冥府の王ハーデスと名乗ったらしい――は、瞬にとって最も大切なものを手放すという代償を払うのなら、その望みを叶えてやってもいいと、瞬に取り引きを持ちかけた――。

「僕は……ハーデスが望んでいるものは僕の命だと思ったから……。だから、それを平和の代償としてハーデスに渡すつもりだった。なのに、ハーデスが奪ったものは、僕と氷河に関する氷河の・・・記憶だったんだ……」
瞬がおどおどしながら語るのは、自分だけに関わることと思い込んでハーデスと交わした契約が、結果的に、俺の意思を無視する形で俺を巻き込むことになったから――のようだった。
事前にその契約の内容を知らされていたら、俺が断固としてそんな事態を拒否していたことは わかっているんだ、瞬は。

「それで、ハーデスの気配が地上から消えてしまったのね。星の動きの異常が元に戻ったのも、あなたとハーデスの契約が成立したからだったのね」
新たな戦いを予感して聖域にこもっていた沙織さんは、この地上から突然 不吉の影が消え去ったことを訝りつつ、聖域の戒厳令を解いた。
まさかアテナのいる聖域から遠く離れた日本で、そんなやりとりが為されていたとは、沙織さんにも想定外のことだったんだろう。

「僕は、ハーデスの意図がわからなかった。なぜ氷河の記憶なのか、が。もしかしたら、僕が死んでしまったあとで氷河が悲しむことがないようにっていうハーデスの思い遣りなのかもしれないとすら思った。けど、僕はいつまでも生きていて――氷河に忘れられてしまったのに生きていて――」
氷河の記憶それは あなたが生きていた証ですもの。何よりも大切なものでしょう」
「なら、僕の記憶を奪うべきだったのに。それで、これまでの僕の生は無になるのに」
「これまで、あなたは自分のために生きてこなかったから……。おそらく、あなたが生きてきたことの真の価値が記されているのは、あなた以外の人の心の中なのよ」
母の犯した罪を贖い、祖国の民を守るために我が身を犠牲にしようとしたアンドロメダ――その星座の聖闘士――を、沙織さんが少し悲しげな目で見詰める。
まもなくアテナは、彼女が掛けていた椅子から立ち上がった。

「それは、手放してはならないものだと思います。取り返さなくては」
瞬以外のアテナの聖闘士が、アテナの決断を聞いて、気を安んじたような顔になる。
瞬だけが、つらそうに その目を伏せた。
「私はすぐに聖域に戻ります。もしかしたら、瞬とハーデスの契約を反故にすることで、冥界との戦いが始まるかもしれないけど、氷河の記憶を取り戻すわ。黄金聖闘士たちも私に賛成すると思います。彼等も、自分の生きる世界は自分の手で守りたいでしょうから。誰かの犠牲の上に生き永らえるなどということは黄金聖闘士にとっては――いいえ、すべての人間にとっての屈辱です」

「で……でも! でも、そんなことをしたら、この地上は……。ハーデスの力は強大です。僕は、沙織さん以外、他のどんな神にも あれほどの力を感じたことはない。お願いですから、このままにしておいてください。アテナの聖闘士は、地上の平和と安寧を守るために存在するんでしょう? 僕は、アテナの聖闘士として、僕がすべきことをしたんです。ハーデスの申し出は、地上のすべての人間にとって、ある意味 寛大な提案だった……!」

「でもね、瞬。それは してはいけないことなのよ。それに、それはただの先延ばしにすぎない。私たちは、数百年先の未来の誰かに、私たちが戦うべきだった戦いを押しつけたりせず、今、私たちの手でハーデスの野望を打ち砕かなければならないわ」
アテナの言葉は正しい。
にも関わらず、瞬は、納得しきれていないようだった。
瞬の瞳は少しも明るくならない。
瞬はアンドロメダ座の聖闘士だから――我が身を滅して 他の犠牲を最小限に食い止めることが、自分にできる唯一の戦い方だと信じているのかもしれなかった。






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