「瞬……」 瞬のことを忘れてしまっても、聖闘士としての記憶が俺に残っていたのは、おそらく幸運なことだったろう。 おかげで俺は、瞬を説得するための言葉を持つことができた。 「おまえがそれを我儘だと思うのなら、そうなのかもしれない。もしかしたら俺のこの願いは聖闘士にあるまじきものなのかもしれない。だが、俺は おまえの記憶を取り戻したいんだ。そして、この手におまえを抱きたい。でないと、俺はもう戦うことができない」 戦うことが聖闘士に課せられた義務で、同時に 聖闘士に与えられた権利なのであれば、戦えないことは、聖闘士にとって死を意味する。 俺が何を言いたいのか、俺が何を言おうとしているのかがわからないほど、瞬は愚鈍じゃない。 俺は『生きたい』と瞬に訴えていた。 「僕は……でも僕は……」 わかっているから瞬はつらいのだろう。 『生きる』という言葉の意味と価値が一つだけではないことが、瞬を自家撞着に陥らせている。 「僕ひとりのことで済むのなら、それで誰も死なずに済むのなら、氷河が……氷河が傷付かずに済むのなら――」 「俺が?」 瞬は、それを願っていたのか? “氷河”が戦わずに済み、傷付かずに生き永らえることを? ――多分そうなんだろう。 ああ、本当に いったい何なんだ、“氷河”という男は! 聞く限りでは、ただの我儘な助平。 それが、こんなにまで瞬に愛されて、守られて、それでいったい瞬はどんな益を得るっていうんだ! 俺は、腹が立って、腹が立って、どうしようもなかった。 瞬に向ける言葉が、少し――否、かなり――きついものになる。 「おまえが一人で勝手に この世界のことを決められると思うのは、とんでもない傲慢だ。この世界は、この世界に生きている者すべての手で守られなければならない」 「氷河……」 「おまえは、自分が満足するために、俺の幸福を犠牲にする気か! おまえにそんなことをする権利はないぞ。あってたまるか!」 「あ……」 俺の剣幕に触れて、瞬が怯えたように眉根を寄せる。 きつく言い過ぎたことに気付き、俺は慌てて語調をやわらげた。 俺は、自分の中に“氷河”を取り戻しかけていたのかもしれない。 どんなふうに語り、叱咤し、迫れば、瞬を素直にできるのか、俺はそのコツを心得ていた。 つまり、飴の次は鞭、鞭の次は飴――だ。 「瞬、俺をこれ以上苦しめないでくれ。忘れているのに、思い出せないのに、つらくて苦しい。俺はもうこんな状態でいることに耐えられない」 演技でも何でもなく本心から(むしろ本能で?)、俺は瞬に訴えた。 「氷河……」 瞬が切なげな目をして、俺を見上げてくる。 「俺を苦しめることが、おまえの本意か。おまえは俺を苦しめたいのか」 その一言で、瞬は陥落した。 「ぼ……僕はそんなつもりじゃなかったの。氷河を苦しめることなんて考えてもいなかった。ご……ごめんなさい……!」 俺はまだ“瞬の氷河”には戻っていなかったが――瞬はそう言って、俺の胸の中に飛び込んできた。 「決まり。ほんと、瞬は氷河に甘いんだから」 星矢が肩をすくめて――だが、ほっとしたような顔をして、沙織さんに合図を送る。 星矢の言う通り――らしい。 “氷河”は本当に瞬に愛され、甘やかされ、瞬を好き勝手に扱い――それは、第三者の目で見ると、理不尽としか言えないような事態だった。 なぜ“氷河”ばかりがそんなに恵まれて、幸運なのか。 俺が“氷河”でなかったら、俺はきっと妬ましさのあまり 氷河を殺してしまっていただろう。 そんなことをして瞬を悲しませずに済むように、俺は一刻も早く、その幸運な男に戻りたかった。 とはいえ、その時 俺は既に半ば以上“氷河”に戻っていたが。 「俺、なんとなく、瞬が氷河から離れられないわけがわかったような気がする……。他人そっちのけで自分たちの幸福だけを考える氷河が側にいないと、自分が ちょっとした弾みで自分の存在を消し去っちまうってことを、瞬は無意識のうちに感じ取ってるんだよ、多分」 「瞬が氷河を好きでいるのは、生きて存在し続けたいという瞬の人間らしい欲求の唯一の無言の叫びというわけだ。それでは……確かに離れられないだろうな」 俺に寄りかかるようにして抱きしめられている瞬を見やりながら、星矢と紫龍が勝手な仮説を繰り広げていたが、俺は奴等が言い立てる御託の正誤など どうでもよかった。 他人が俺たちを見てどう思おうと、そんなことは俺の知ったことじゃない。 大事なのは、俺が瞬を好きで、瞬が俺を好きで、そのことによって俺たち二人が幸福な人間でいられるということだけだ。 二人のために――俺は瞬をこの手に取り戻す。 Fin.
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