「ハーデスやあなたに僕をどうこうする権利はありません。僕をみんなのところに帰してください」
瞬は決してアフロディーテに拉致されたわけではなかった。
瞬は確かに瞬自身の意思でアフロディーテと共に聖域を出たのである。
おそらく、夫であるスパルタ王メネラオスの許からパリスと共に出奔したヘレネーと同様に。
だが、『私は一生 君をここに閉じ込めておくつもりだ』というアフロディーテの言葉に、瞬は到底従う気にはなれなかった。
そんな瞬の反駁を、魚座の黄金聖闘士がせせら笑う。

「みんなのところ、ね。君の憤りはわからないでもないが、世の中というものは理不尽なものだよ。人は皆、その理不尽に耐えなければならない。人間の権利など、神の意思の前には無いも同然。人間の心など、神の意思ひとつでどうとでもできるものだ。実際、君はこうして私についてきたではないか」
「それはそうですけど――」

瞬が連れてこられたのはデンマーク領グリーンランド北部にある古い城砦だった。
花崗岩でできた城の周囲に人家はない。
城には他に住人もいないらしく、聞こえてくるのは波の音ばかりだった。
ここがアフロディーテの修行地だったというのなら、彼は氷河の修行地と大して変わらない気候の地で修行の日々を送ったことになる。
そんなことで――瞬はふいに彼に対して親しみを覚えた。

「私には逆らわない方がいい。私は、ハーデスから君の命も貰い受けた。君の生殺与奪の権は私の手の内にある。私はその気になれば、いつでも君の命を絶つことができるんだぞ」
「……」
瞬が、さすがに反駁の言葉を失う。
黙り込んでしまった瞬に、アフロディーテは興味深げに、そして半ば揶揄するように尋ねた。

「生きていたいか」
「当たりまえです」
一瞬のためらいもない瞬の答えを聞いたアフロディーテが、冷たい響きの声で瞬に重ねて尋ねてくる。
「なぜだ? なぜ、当たり前なんだ?」
「仲間がいて、生きていれば幸せになれるだろうと思うからです」
「明快だな。つまり君は、自分が生きて存在することに疑問や不安も覚えない愚鈍な人間というわけだ。愚かで おめでたい馬鹿――。青銅聖闘士たちは皆そうだ。見ていると腹立たしくなる」

そんなおめでたい者たちに負けたことが、彼にとっては未だに心の中から払拭しきれない屈辱であるらしい。
瞬にぶつけられるアフロディーテの声の響きは、非常に冷たいものではあったが、決して冷静なものではなかった。
「私は、君には敗北という屈辱も味わわされた。その礼もしなければならない」
「あなたには、負けることは屈辱なの? 僕はこれまで――いつだって負けてばかりで生きてきましたけど。自分の意思を誰からも無視されて、いつも人の都合で生きる場所を決められて、人に命じられる通りにしか動けなくて、当然 自分の生き方も自分で決められなかった。言ってみれば、僕は負け続けの人生を――」

「だから、私にも敗北を受け入れろというのか !? 諦めろというのか! 冗談ではない! 私は黄金聖闘士だぞ。敗北などという醜悪な行為を甘んじて受け入れるくらいなら、死を選ぶ。それが許されない今、この手で汚名をそそぐしかないではないか!」
そして、今、彼には その機会と手段が与えられた――のだ。
魚座の黄金聖闘士に敗北という屈辱を与えた小さな人間とその命が、今、彼の手の中にある。

「それも一つの生き方なのかもしれませんけど……そういう生き方をしていると疲れますよ」
アフロディーテの目的が、瞬にはどうしてもわからなかった。
アンドロメダ座の聖闘士の命を手に入れ、その命を脅しの種にして憂さを晴らしたとしても、彼の敗北の事実がなかったことになるわけではないというのに。
「だいいち、僕を手に入れても、あなたは少しも楽しめないと思うんですが。僕は何の芸もできませんし」
「それは私が決める。私にとって何が楽しいことなのかは、私にしかわからないものだと思うが」
「その考えは正しいと思います」
「……」

瞬にアフロディーテの目的がわからないように、アフロディーテにもまた、瞬の落ち着き払った態度の訳がわからなかった。
命を他人の手に握られている人間が、なぜ取り乱す様子もなく、自分の命を握っている相手に対して こんな生意気な口をきいていられるのか。
アフロディーテは、何が何でも瞬が慌て取り乱す様が見たくてならなかった。
そのために――意識してさりげなく、瞬に尋ねてみる。

「君が私と一緒に来たことで、キグナスはさぞかし怒り狂っていると思うが、君は平気なのか」
「それを言われると……あまり平気ではないんですけど」
瞬が、期待通りに、自分が平静でいないことを告白してくる――言葉でだけ。
発言の内容に反して落ち着き払った瞬の声音が、かえってアフロディーテの気持ちを逆撫でした。

「あんな阿呆のどこがいいんだか」
吐き出すように、アフロディーテはそう言った。
当人たちが喧伝してまわったことはないのだが、白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に異様なまでに入れ込み、アンドロメダ座の聖闘士も そんな白鳥座の聖闘士を疎ましく思っていない――というのは、聖域の者なら知らない者のない呆れ果てた事実だったのだ。

「僕は、自分が侮辱されることは平気なんですが……」
瞬が、魚座の黄金聖闘士に向かって にっこりと笑い、
「氷河を侮辱することは許さない」
きっぱりと断言する。
そんな笑顔に気圧けおされてなるかと、魚座の黄金聖闘士は自分に活を入れたのだが、そうすることが既に、彼がアンドロメダ座の聖闘士に気圧されていることの証左だったろう。

「侮辱も何も事実だろう。あの男は――」
その先の言葉を、瞬は聞きたくなかった。
だから、瞬はアフロディーテに それ以上口をきかせなかった。
「氷河は誰よりも正直でまっすぐな人間で、僕は氷河といるととても幸せな気持ちでいられる。無条件で人を信じる気にもなれる。氷河は稀有な存在です」
「……君ほど利口な子が、なぜあんな――」
その先も聞きたくない。
不愉快な言葉を聞かないために、瞬は再度アフロディーテの言葉を遮った。

「氷河はセックスがとても上手なの」
「なに……?」
「とでも言ってほしいんですか、あなたは」
「……」
魚座の黄金聖闘士は、どう考えてもアンドロメダ座の青銅聖闘士に負けている。
アフロディーテはどんなことででも、他人に負けることが嫌いだった――負けを認めることが嫌いだった。
だから彼は無理に平静を装ったのである。

「まあ、人間性がどうこうと言われるよりは納得できる理由だが」
「それは残念ですね。僕は氷河の人間性に惹かれているんです」
「君は狂っている」
アフロディーテの断言に、瞬が初めて作ったものではない笑顔を浮かべる――浮かべたように、アフロディーテには見えた。
「そう見えるくらいなら、僕の恋は本物なんでしょう」
「……」

アンドロメダ座の聖闘士が誰とどんな恋をしていても構わない。
どんな仲間とつるみ、どんな戦いを戦っていたとしても、アフロディーテは一向に構わなかった。
ただ 彼は、自分が人に軽んじられることが嫌いだったのである。
まして、自分を軽んじている人間が 自分自身はひどくこだわりを覚えている人間で、その人間がこだわっている相手を自分はさほど価値のある男と思うことができないのであるから、なおさら。
アフロディーテは ぎりっと歯噛みをした。
「とにかく、君は私のものだ。私に断りなく ここを出ることは許さない。私が君の命を手にしていることを くれぐれも忘れぬことだ」
それだけを言って、アフロディーテは海に面した部屋を苛立ったような足取りで出ていった。

石の壁に囲まれた部屋に一人残された瞬は、窓の向こうに見える青灰色の海と空を見やり、溜め息をつくことになったのである。
部屋には寝台と小さなライティングデスクと椅子があり、空調設備はないようだったが、続き部屋へのドアがあるところを見ると浴室の設備も整っているようだった。
美しくないものが嫌いなアフロディーテのこと、頼めば清潔な着替えも用意してくれるだろう。
これは軟禁であって、収監ではない。
が、いずれにしても、瞬がこの島を出ることができないのは紛う方なき事実だった。

「氷河、怒ってるだろうな。黙って出てきちゃったし……馬鹿なことしなきゃいいけど」
その希望が叶うわけがない。
それは、正直でまっすぐな氷河の“人間性”を知り尽くした瞬自身が誰よりもよく知っていた。






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