「アフロディーテが瞬を誘拐して逐電しただとっ !? 」
氷河はもちろん、聖域に――今現在白鳥座の聖闘士がいる場所に――瞬の姿がないことに怒り狂っていた。
瞬をエサに“最も美しい男神”の称号を手に入れたハーデスもハーデスだが、そのエサに釣られるアフロディーテは 更に更に許し難い。
氷河の怒りは専ら 瞬の身柄を今その手の内に収めている男に向けられていた。
その怒りには、当然 焦慮も含まれている。

「いや、拉致や誘拐ではないようなんだ。瞬は自発的にアフロディーテが用意したジェットヘリに乗り込んでいったらしい。現場を目撃した兵の一人が証言している」
だからアフロディーテを安直に犯罪者や加害者と決めつけることはできないし、瞬も被害者ではないかもしれない。
これはただの散歩か旅行かもしれず、瞬の身が危険にさらされているとも限らない。
――となだめるつもりで、紫龍はその事実を仲間に知らせた。
結果として、紫龍の発言は氷河の怒りという炎に油を注ぐだけの行為になってしまったのだが。

「そんなことがありえるかっ! 瞬が自発的に俺以外の男のあとについていくなんて、そんなことは絶対にありえんっ!」
その自信はどこから湧いてくるのかと、彼の仲間たちは言葉には出さずに思ったのである。
瞬は『こちらに来い』と呼ばれれば、呼んだ者が誰であっても その者の許に行くだろう。
それが氷河でなくても、自分に対する害意が感じられない人間が相手のことであれば。
が、その考えをここで口にするのはまずい――と判断することは、星矢たちにもできた。

「でもさ、目の前に特別うまそうなケーキとお茶が用意されてたとしたら、瞬はヘリの中だろうが檻の中だろうが、喜んで乗り込んでいくだろ」
「それは……」
それは、ありえることである。――と、氷河は素直に認めざるを得なかった――認めることができた。
瞬がついていったのが、人ではなく物であるのなら。
ともあれ、瞬がついていったものがアフロディーテであったにしてもケーキであったにしても、瞬が今現在 白鳥座の聖闘士の側にいないということは厳然たる事実である。
氷河は、その事実に憤らずにはいられなかった。

そこにやってきたのが太陽神アポロンと海神ポセイドン――である。
彼等は、獣罠に足を挟まれて気が立っている虎のような様子の氷河を見ると、それが彼等の期待していた通りの光景だったらしく、我が意を得たりとばかりの北叟笑みを浮かべた。
ギリシャ青年美の理想とされるアポロンはともかく、本当はいい歳をしたおじさんのはずのポセイドンは ちゃっかりジュリアン・ソロの身体を借用している。

「間男に妻を奪われて為す術もなかったメネラオスのように、こんなところでのほほんとしていていいのか、キグナス」
「今すぐにでもアンドロメダを奪い返しに行くのが男というものだろう」
言われなくてもそうするつもりではあったが、それとこれとは別問題である。
けしかけてくる二柱の神に、氷河は遠慮会釈なく胡散臭そうな目を向け、噛みつくような怒声を彼等に浴びせかけた。
「なぜ、貴様等がここにいるんだ!」

氷河の詰問に答えたのは、彼に問われた神々ではなく龍座の青銅聖闘士だった。
神々にも正直になれない場面――立場と体面を優先しなければならない場面――というものがあることを、彼は承知していたのである。
「神々の間で成された決定を 神に覆すことはできないから、人間に代理戦争をさせて、意趣返しをしようという魂胆なんだろう」
「なに……?」

黄金のリンゴを巡る争いを受けて勃発したトロイア戦争がそうだった。
愛と美の女神アフロディーテに直接 嫌がらせをすることができなかったアテナとヘラはギリシャ連合軍側につき、アフロディーテに最も美しい女神の栄誉を授けたパリスの故国トロイア王国を この世から消滅させてしまったのである。
それと同じことを、この二柱の神は、神々の伝統にのっとって(?)行なうつもりでいるのだ。

「そんな煽りに俺が乗せられてたまるか」
芸がないだけならまだしも、考えることが さもしすぎる。
氷河は二柱の神に侮蔑の視線を向けた。
人間によって与えられる侮蔑など、だが、高貴な神々には何ほどのものでもなかったらしい。
彼等は平然として氷河を煽り続けた。

「魚座の黄金聖闘士は君のアンドロメダに何をするかわからんぞ。アンドロメダはあの通り、死すべき人間にしておくには惜しいほど可愛らしい様子をしているし、清らかなものは汚したくなるのが人情というものではないか」
「瞬は強い。今の瞬はアフロディーテなど一捻りで倒すことができる」
反駁した氷河に、ジュリアン・ソロの姿をしたポセイドンが わざとらしく哀れむような目を投げてくる。
「君はアフロディーテがハーデスからアンドロメダの命を与えられたことを失念しているようだな。彼は当然その利用方法を心得ている。命を脅迫の種にして、自分より強い者を屈従させるのは、さぞかし気分のよいことだろう」
「アフロディーテは、君がいつもアンドロメダにしていることをアンドロメダに強要するかもしれないぞ。いや、もちろん、私は、君がいつもアンドロメダに何をしているのかは知らないが」

「陳腐な煽り方だな」
星矢が両肩をすくめる横で、
「しかし、効果は絶大だ」
紫龍が低く呟く。
紫龍の呟きは既に推察ではなく、現実に現れた事実になっていた。
紫龍がそう言う側から、神々の煽りに乗せられた氷河は仲間たちを振り返り、否やを言わせぬ態度と口調で高らかに宣言したのである。
「星矢、紫龍。何をのんきな顔をしているんだ。瞬を取り返しに行くぞっ!」

「俺たちもかよ!」
「瞬が俺を呼んでいる! 俺は、瞬が不埒な真似をされる前にアフロディーテを完膚なきまでに叩きのめして、奴のものを使い物にならないようにしなければならんっ」
いったい氷河は、いつも瞬にどんなことをしているのか。
想像できないわけではないが、想像したくもない。
星矢は、いきり立つ氷河を落ち着かせる作業に、無駄と知りつつ取りかかった。

「瞬はアフロディーテより強いんだし、そのうち一人で脱出してくるって」
「瞬はアフロディーテにその命を握られているんだぞ。おまえは瞬が殺されてもいいというのかっ」
「瞬は、おまえと違って頭がいいから、そこもうまく切り抜けるって」
「瞬は利口だが、アフロディーテは馬鹿だ。馬鹿は何をするかわからんのだー!」
「自分のこと言ってらあ」
その作業に取りかかる前からわかっていたことだったが、星矢の努力はもちろん実を結ばなかった。

「仕方がない。とりあえず、アフロディーテの修行地であるグリーンランドに向かうとするか。沙織さんにジェットヘリを用意してもらおう。このまま氷河をここに置いたら、怒りまくった氷河は聖域を雪と氷の世界にしてしまいかねない」
氷雪の聖闘士の凍気に対抗できる春の小宇宙を持ったアンドロメダ座の聖闘士は、今 ここにはいない。
瞬奪還のためというより、聖域の安全を守るため、氷河をこの場に留め置くのは賢明な方策とは言えなかった。
「しっかたねーなー」
星矢がしぶしぶ紫龍の提案に同意する。
それから彼は、ふと思いついたように龍座の聖闘士に尋ねた。

「ところでグリーンランドってのはどこにあるんだ?」
天馬座の聖闘士の地理の知識は、その程度のものだった。






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