グリーンランドはデンマーク領。北極海と北大西洋の間にある世界最大の島である。
そのほとんどが北極圏に属し、緑の地グリーンランドとは名ばかりの、氷床と万年雪に覆われた島。
名前だけが緑の島に上陸した星矢は、その純白の光景に冥界のコキュートスの氷地獄の様を重ね見ることになった。
となれば、そこに現れるのは当然 冥府の戦士たちである。
ハーデスは、神々の代理戦争であるこの戦いに、最初から大物を投入してきた。
すなわち、ラダマンティス、ミーノス、アイアコスの冥界三巨頭たちを。

一度は青銅聖闘士たち(+カノン)に倒された者たち。
その点で 彼等は黄金聖闘士たちと同じ立場に立つ者たちだったのだが、彼等は黄金聖闘士たちとは違って、そこで『長いものには巻かれろ』とばかりにアテナに寝返ることをしなかった。
彼等には そうする時間も機会も与えられなかったというのが事実であるのだが、そのことに思い至った星矢と紫龍はこの時初めて、『では魚座の黄金聖闘士はどうだったのか』ということを考えることになったのである。
そんな星矢たちをよそに、早速ミーノスが氷河の挑発に取りかかる。

「ああ、もう行っても無駄だ。今頃アンドロメダは魚座の黄金聖闘士に手込めにされて、涙に暮れていることだろう。アンドロメダは君には顔向けできまい。君はこのまま聖域に帰った方がいい。アンドロメダは、おそらく君には会いたくないだろう」
「か……勝手な憶測でものを言うなっ!」
「憶測ではなく、根拠のある推測だ。誰しも死にたくはないだろうからな。それはアンドロメダとて同じだろう」
「命を盾に取られているんだ、あの坊やは魚座の黄金聖闘士に逆らうわけにはいくまい」
横からラダマンティスが口を挟んでくる。
氷河は、どうにも虫の好かない その暑苦しい顔の男を睨みつけた(とはいえ氷河は、基本的に瞬以外の男はみな虫が好かないのだが)。

「瞬はそんな脅迫には屈しない!」
「アンドロメダは、君を悲しませないために死ぬわけにはいかないと思うのだが」
ラダマンティスと違ってミーノスは理屈で氷河を攻めてくる。
百聞ならぬ一聞した限りでは冷静かつ客観的に思われるミーノスの“推測”に、氷河は一瞬 声を詰まらせた。
「この場合、アンドロメダに選ぶことのできる道は、魚座の黄金聖闘士に汚されて生き残ることだけなのではないかと思うのだが。君は汚されたアンドロメダを疎んじるようになり、アンドロメダは死ぬわけではないから、君が彼の死を悲しむこともない。アンドロメダはそう考える子だ。そうではないか?」

(瞬……!)
それは、ミーノス自身が言っている通り“推測”にすぎない――のだろう。
しかし、その推測は、実現する可能性が低くはない推測でもあった。
命を質に取られて 誇りの供出を迫られたなら、瞬は仲間を悲しませないために、自らの命ではなく誇りの方を放棄するに違いない。
氷河は、ミーノスの推測に同意しないわけにはいかなかった。
頬を蒼白にした氷河の頭を、星矢が力の加減もせずに殴りつける。

「落ち着けよ、氷河。アフロディーテが意趣返しにそんなことするなんて考えられないだろ。アフロディーテは腐っても黄金聖闘士だぞ。アテナの聖闘士なんだぞ!」
「だが、アフロディーテの目的は、一度は奴を倒した瞬への復讐以外に考えられないじゃないか! 富や権力はともかく、戦いでの勝利よりも、奴は瞬を選んだんだぞ……!」
星矢に反駁したのは、あろうことか、ミーノスではなく氷河だった。
「瞬の価値がわかっていたか、復讐心に燃えるあまり価値観が狂っていたか……そのどちらかだろうな」
紫龍が、分別顔で氷河の意見に頷き返す。

氷河としては、後者の方がまだまし――だった。
魚座の黄金聖闘士が復讐の思いに狂った愚かな男であってくれた方が。
しかし、万一 前者であったなら――。
「うおおおお〜っ !! 」
考えるより先に、氷河の身体は行動を開始していた。
瞬の許に行かなければならない。
1分でも1秒でも早く。
推測や不安は、事実を確かめることによってだけ消し去ることができるのだ。
氷河の拳がミーノスのヘッドパーツを氷の大地に叩き落す。
静寂の氷地獄のようだった純白の島は、途端に緊張感に満ち満ちた戦場へと一変した。

「紫龍! かえって暴れさせてどうすんだよ!」
「ああ、すまん。だがもう こうするしかなかったんじゃないか」
今更どうこう言っても やり直しはきかない。
戦いは始まってしまったのだ。
主に、氷河ひとりの胸の中で。

嘆きの壁の向こうの世界とは異なり、神の血を受けた聖衣に優越が与えられるわけではない地上の一角にある白い島。
そこで氷河は冥界三巨頭の一人であるミーノス相手に互角もしくは互角以上の戦いを繰り広げていた。

「いや、それにしても強いな。氷河の奴は 前からこんなに強かったか?」
「そりゃ、瞬の貞操の危機なんだから、氷河も頑張るだろ」
「ふむ」
これは完全に氷河(だけ)の戦いなのだから――という理由の他に、白鳥座の聖闘士とミーノスの戦いが余人には手の出しにくい空気に包まれていたせいで、星矢と紫龍はすっかりただの見物人に成り果てていた。
見物人が見物人ならではの冷静さと客観性で、このバトルの解説を始める。

「世界の平和や正義などという壮大で抽象的な目的のための戦いでなく、瞬という具体的で身近な目的のための戦いだから、氷河は、自分がどう戦うべきか、力をどう使うべきかの判断を的確かつ具体的に為すことができているというわけだ。まあ、事態は切迫しているし、ここは力の出し惜しみはしていられない場面だ。氷河は今、120パーセントの力を出して戦っていると言っていいだろうな」
「いつものバトルでは、氷河は力の出し惜しみをしてたってことかよ?」

「意識してそうしていたとは考えにくいが……。つまり、突然『世界の平和のために戦え』と言われても、人は自分が何をすべきかかわからないものだろう? しかし、『あそこで悪者に危害を加えられている子供がいるから、助けろ』という命令なら、自分が何をすべきかは容易にわかる。目的が具体的で卑近なものであればあるほど、力の使い方もわかるし、当然、その目的の達成率も高くなる。今の氷河がそうだ。氷河のこれまでの戦いは、対カミュの時も対アイザックの時も、その目的が奴の希望や意思とは合致していなかったからな。他の戦いでも、その目的は奴自身の心から出たものではなく、アテナによって与えられたものだったし」

紫龍の解説はわかるようでわからない――というのが、星矢の本音だった。
だが、目的が身近なものであればあるほど 人は戦いやすい――という意見には、星矢も同感することができた。
世界の平和を守るための戦いより、一つの命を守るための戦いの方が、気持ちをその一点に集中しやすく、結果として勝利の可能性は大きくなるのだ。
「アテナに敵対する敵を、目の前にいる奴から地道に一人ずつ倒していくことが、結局は 世界の平和っていう大きな目的を達成するための最も有効な戦い方ってことかー。で、アテナは小さな目的を一つずつ俺たちに指し示してくれている――と。さすがは知恵と戦いの女神サマだ」

星矢の理解に軽く頷き、紫龍が短く吐息する。
「そのアテナのせいで、氷河は今 苦労しているわけだが」
「知恵と戦いの女神サマはいったい何考えてんだか……」
紫龍につられる形で、星矢は――星矢もまた――戦場に長嘆息を洩らすことになったのである。
ミーノスを倒した氷河は、肩で息をしながら、今度は 天猛星ワイバーンのラダマンティスに向き直っていた。






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