アフロディーテに断りなく この城と島を出ないという約束を受け入れる代わりに、瞬は魚座の黄金聖闘士にお茶とケーキを要求した。
瞬のリクエストは即座に叶えられ、瞬は それらのものを要求したのは自分自身だったというのに、テーブルの上に置かれたお茶とケーキに目を丸くしてしまったのである。
「今はネット通販という便利なものがあってね。それに、君がアテナの聖闘士でありながら 主に色恋と食い気だけで生きているということは、聖域に知らない者はいないほど有名なことだ」
アフロディーテは敵の食の好みをも周到に研究していたものらしい。
出されたケーキとお茶は、瞬の舌を満足させるものだった。

「ここ、いいところですね。氷河のいたシベリアもこんなふうなところなのかな」
グリーンランドは、“赤毛のエイリーク”と呼ばれるバイキングによって発見され、入植計画が立てられた島である。
その計画に先立ってアイスランド入植計画に失敗していたエイリークは、アイスランド――氷の地――という名が人々の移住の意欲を損なったのだと反省し、この雪と氷の島をグリーンランド――緑の地――と名付けた。
事実はこの島こそが氷の地であったにも関わらず。

青灰色の海と空。
部屋の窓から見渡せる範囲のどこにも、緑色のものはただの一片もない。
アフロディーテには、この島の光景が瞬の好みに合致しているとは どうしても思えなかった。
「気候の厳しいところって、綺麗な人を作るのかな。僕、氷河の人間性も好きですけど、氷河のあの綺麗な顔も大好きなんです。氷河の瞳をじっくり見たことあります? 宝石より綺麗で宝石より輝いてますよ」

「君は……! 少しは危機感というものを持ったらどうなんだ。君は私に命を握られているんだぞ!」
「僕の人生って、いつもそうだったから、そういうの慣れてるんです」
「そういうことではなく! 私は今すぐにでも、私の気分ひとつで君の命を消し去ることができると言っているのだ!」
好意を持っていない人間に命を握られている――その事実は 人に恐れを抱かせることもできないほど些細なことだろうか。
アンドロメダ座の聖闘士の落ち着き振りが、アフロディーテは癇に障ってならなかった。
その上、瞬は、何を語るにしてもすべてを白鳥座の聖闘士に結びつける。

人に軽んじられること、人と比較されることが嫌いなアフロディーテとしては――魚座の黄金聖闘士はなまじな人間との比較対象になるほど安い人間ではないのだ! ――瞬の言動の一から十まですべてが不愉快でならなかった。
気の立った猫のようなアフロディーテに呆れたような顔をして、瞬が、仕方がないので彼のリクエストに応える。

「危機感なら、ちゃんと持ってますよ。あなたは、僕の優しかった先生の命を冷酷無情に奪った人だ」
「……!」
「嬉しかったですか? あなたの大好きな美しい勝利」
アフロディーテは、よもやここでその話を持ち出されることになるとは考えてもいなかった。
皮肉を言う術も持たない無心な春の花のような風情の持ち主が、実に立派な皮肉を口にする。
アフロディーテは我知らず たじろぐことになった。

「私は、教皇の命令に従ったにすぎん」
「自分のしたことの責任を他人に転嫁するのって、あまり美しいこととは思えないんですけど」
「……」
それは明確に皮肉で嫌味だった。
そんなものをアンドロメダ座の聖闘士は、彼の生殺与奪の権を持った人間に淡々と、無邪気にも見える瞳を向けて言い募る。
いったいアンドロメダ座の聖闘士は死を怖れていないのか、それとも、死への恐怖以上に魚座の黄金聖闘士への恨みと憎しみが強いのか。

アフロディーテには瞬の底意がわからなかった。
とても知りたかったのだが、どうしても読み取ることができない。
彼にできたことはただ、アンドロメダ座の聖闘士に かろうじて皮肉で切り返すことだけだった。
「実に意外だ。汚れを知らぬアンドロメダの聖闘士の心の中に復讐心などという人間的な感情があったとは」

「何を勘違いされているのかは知りませんけど、僕はごく普通の人間ですよ。富と権力、戦いでの勝利を約束されたにも関わらず、それらを振り切って僕を選ぶなんて、あなたも馬鹿な選択をしたものだ」
「ハーデスが自らの依り代に選んだほどの人間が、ごく普通の人間であるはずがないだろう」
瞬が普通の人間であるはずがない。
そうであっては困るのだ。
もしそうであったなら、魚座の黄金聖闘士は“普通の人間”に敗北を喫したことになるのだから。
だが、瞬の答えはにべもないものだった。

「ハーデスも勘違いしていたんでしょう。人の人生だの、世界のありようだの、そんなものは、ちょっとした弾みや判断ミスで大きく変わる。あなたも言っていたじゃないですか。人は、神の気まぐれや理不尽に振り回されて生きていくしかないんだって」
「私が言いたいのは――」
「だから、本当に欲しいものを虚心に見詰めて、目を逸らさずにいないと、弾みで変なことになって、あとで後悔するんです」

アンドロメダ座の聖闘士は、魚座の黄金聖闘士が一介の青銅聖闘士に破れたことも、アテナに反逆したことも、かつて死闘を繰り広げた二人が今ここにこうして共にいることも、すべてはただの弾みだったことにしてしまおうとしている。――もしかしたら、魚座の黄金聖闘士のために。
だが、アフロディーテは瞬の言葉を素直に受け入れることができなかった。
弾みではなかったのだ、あれは。
そして今も。
魚座の黄金聖闘士は深く考えて、それをした。
明確な意思を伴った過ちを“弾み”の一言で片付けてしまっては、それこそ卑怯というものである。
それは美しい行為ではない。

「では、君が欲しいものは何なのだ」
「もちろん、地上の平和ですけど」
「そんな綺麗事」
「でも、僕たちの生きている世界が平和であれば、僕も僕の仲間たちも幸せになれるもの。その究極の目的を見失わずにいるから、復讐なんて無意味なことだと思うこともできる」

そんなふうに迷いなく断言できるほどの“目的”を、魚座の黄金聖闘士はこれまでに一瞬でも抱いたことがあっただろうか。
自身に問いかけ、答えが見えず、戸惑った魚座の黄金聖闘士に、瞬がふいに問いかけてくる。
「あなたは?」

急にまっすぐに、恐れを覚えるほど澄んだ瞬の瞳に迫られて、アフロディーテはたじろいだ。
そんな魚座の黄金聖闘士に、アンドロメダ座の聖闘士は重ねて尋ねてくる。
「あなたが本当に欲しいものは何?」

『わからない』――が、アフロディーテの本音だった。






【next】