悩んだ末に、アフロディーテは正直になることをした。 正直になって、正直に、 「わからない」 と答えた。 なぜなのかは、アフロディーテ自身にもわかっていなかった。 だが、アンドロメダ座の聖闘士なら、自分にそれをわからせてくれるかもしれない――という期待が、アフロディーテの胸中にはあった――生まれていた――のである。 自分の大嫌いな青銅聖闘士なら、その答えを知っているのかもしれない――という思いが。 瞬は、アフロディーテの答えを聞くと、意外そうに首をかしげ、やわらかく微笑した。 「あなた、前に戦った時とは変わったみたい」 「変わった?」 「だからなのかな。アテナが僕にあなたと一緒に行けと言ったのは」 「アテナが?」 突然 彼の女神の名を出されて、アフロディーテは我知らず息を呑むことになってしまったのである。 彼の女神――彼女の聖闘士であることが、アテナの聖闘士たちの生と誇りの拠りどころである。 それは黄金聖闘士も青銅聖闘士も等しく同じで、魚座の黄金聖闘士もその例外ではなかった。 聖闘士になった時、初めて聖衣をその身にまとった時、確かに魚座の黄金聖闘士は彼の女神を敬愛していたのだ。 今となっては、それも ひどく遠い昔の出来事のように思えたが。 瞬が、アフロディーテに頷く。 「理由は教えてもらえなかったんですけど……黄金聖闘士じゃ駄目なんだって、アテナは言っていました。あなたと命を懸けて戦い、あなたに師を殺され、あなたと同じように一度はアテナに反逆した僕が適役なんだって。アテナはあなたのことを心配しているようでした」 「魚座の黄金聖闘士がまたアテナを裏切るかもしれないと?」 自嘲するように、アフロディーテは瞬に向かって――というより、その場にいない彼の女神に向かって――言った。 そう疑われるのも当然のことを自分はしてきたと、それは彼も認めざるを得ない。 それでも彼女に魚座の黄金聖闘士を信じてほしいと望むことは見苦しいことだった。――アフロディーテの美意識では。 アフロディーテの自嘲を、瞬が事もなげに否定する。 「まさか。それならアテナはさっさと黄金聖闘士たちを派遣して、身内で片をつけさせていたでしょう」 「ならば、なぜ」 「生きて存在することに不安や疑問を持たない、僕みたいに能天気な子供になら、あなたも気を許して 本当の気持ちを話してくれるかもしれないと考えたんじゃないかな」 「それは皮肉か」 「ええ、僕、ものすごい皮肉屋なの」 にこにこと無邪気な子供のように笑って瞬は頷くが、それは謙遜でもなければ慎み深さでもない、紛う方なき事実だった。 そしてアフロディーテは、そういう瞬が相手だからこそ、自身の真情を吐露する気になったのである。 子供なのか大人なのか、利口なのか暗愚なのか掴みどころのない、不可思議なアンドロメダ座の聖闘士に対してだからこそ。 「私……は、贖罪をしないまま、アテナに再び受け入れられたことがつらい――のだと思う。アテナに反逆したこと、君の師の命を奪ったこと――私はそれらの罪を償っていない。私は過去の罪の清算を済ませないまま、アテナに帰順した」 「過去の清算なんて、それは未来ででしかできないことでしょう。それをしてくれると思うから、アテナはあなたの帰順を許したのだと思いますけど」 気軽にそう断じてしまえる瞬は軽薄なのか、あるいは度量が広すぎるだけなのか。 その判断もつかぬまま、アフロディーテは言葉を継いだ。 「アテナは――仲間たちは、私を信じてくれている……と思うか? 私を許してくれている……と?」 自分はそんなことを考えていたのだと、そんなことを不安に思っていたのかと、アフロディーテは今 初めて気付いた――気付かされた。 アフロディーテのその不安も、瞬は軽快な笑顔で吹き飛ばしてしまう。 「当然でしょう。僕の命があなたの手に渡されるのを黙って見ていたくらいだもの。あなたを信じていなかったら、アテナはそんなことはしませんよ。僕に何かあったら、氷河が何をしでかすかわかったものじゃないし」 「はは……」 実に説得力のある根拠である。 アフロディーテは瞬の言葉に、空しい笑いを返すことになった。 「だから、私も 君を陵辱しようなんて馬鹿な考えは抱かなかった。君とキグナスと――私の大嫌いな青銅聖闘士を同時に二人打ちのめすことのできる効果的なやり方だとは思ったんだがな。君は綺麗だし、それは こういう時のお約束の展開でもあったのに」 「賢明な判断です。あなたにそんな馬鹿なことをされたら、僕も本気で怒らないわけにはいかなかったでしょうから」 アンドロメダ座の聖闘士の本気。 それはいったいどんなものなのか。 噂には聞いていたし、双魚宮の戦いで その片鱗を垣間見てもいたのだが、それを目の当たりにする勇気は、今のアフロディーテには持ち得ないものだった。 彼は、まだ生きていたかったから。 「アテナは――僕の仲間たちも、ハーデスにいいように操られて世界を滅亡に導こうとした僕を許してくれましたよ。僕は、これからの僕の行動で、自分の罪を贖うつもりです。過去は修正できないから。それは、僕が――僕とあなたが耐えなきゃならない事実で現実だ。誰かに許してもらって、それで楽になろうなんて、そんな責任転嫁はできないでしょう。そんなの卑怯だもの」 「確かに美しい行為ではないな」 「そうそう。そんな見苦しいことは あなたには似合わない。あなた、天と地の狭間に輝きを誇る美の戦士なんでしょう?」 罪を知らない可憐な花の風情をして、瞬がにこやかに微笑む。 アフロディーテは思いきり――気負いと意地を捨てて思いきり――両の肩をすくませた。 「本当に皮肉家だな」 「僕はごく普通の人間ですから」 「いや……ありがとう」 今度は瞬の方が、魚座の黄金聖闘士に驚かされる番だった。 あまりに唐突で、あまりに素直なその一言に、瞬は――アフロディーテには失礼な話だが――ひどく面食らってしまったのである。 だが、瞬は、そんなことに驚いている場合ではなかった。 至って素直で、極めて端的、それゆえに深い意味を持つ 一言を口にした魚座の黄金聖闘士は、その言葉に戸惑っていた瞬を、なんと突然彼の胸に抱きしめてしまったのだ。 「ア……アフロディーテ……あの……」 たった今、その賢明な判断を褒めたばかりだったというのに、この振舞い。 瞬は慌てて彼の腕の中から逃れ出ようとした。 が、アフロディーテは瞬にそうすることを許さなかったのである。 「アテナにこんなことをして感謝の気持ちを示すわけにはいかないからな」 「え……? あ、ああ、それはそうですね」 言われてみれば、その通りである。 アフロディーテの言葉には、確かな理と同感できる情があったので――瞬は彼の抱擁から逃れる理由を見失い、彼の胸の中で大人しくなった。 彼の胸の中で、そして、瞬は感じ取ることができたのである。 魚座の黄金聖闘士が、“力”と“美”がどういうものであるのかを大きく考え違いをしていたこと。 その誤りと過ちを、彼が深く後悔していること。 アフロディーテの後悔と反省はひどく素直な感情で、それゆえに瞬の心に響くものがあった。 瞬には、今のアフロディーテは双魚宮で戦った時の彼ではないと信じることができた。 その事実が嬉しくて、黄金聖闘士の強大な小宇宙が快くて、瞬は少し陶然とした気分になりかけていたのかもしれない。 瞬が我にかえった時、瞬の目と耳に最初に飛び込んできたものは、満身創痍の氷河の姿と、 「アフロディーテ、貴様ーっっ! オーロラ・エクスキューションーッッッ !! 」 という氷河の大音声だった。 「氷河、なにするのっ!」 瞬は、そして、鍛え抜かれた鉄壁の防御本能で、白鳥座の聖闘士の拳をはね返してしまったのである。 そうして――。 氷河に少し遅れて、瞬が軟禁されていた城にやってきた星矢と紫龍は、そこで見るも無残な白鳥座の聖闘士の姿を認めることになってしまったのだった。 |