彼女は、既にこの世界に人間が入り込んだことを知っていた。 彼女はその姿を瞬に見せたくなかったのかもしれない。 心身共に疲れ果てていたらしい瞬が安全な場所に辿り着いた安堵に誘われて眠りにつくのを待っていたかのようなタイミングで、彼女は俺の前に姿を現わした。 彼女はいつも、まるで風に乗って移動している陽炎のように、突然俺の前に現われる。 「この者は人間の世界の記憶を持っている。人間の持つ罪と汚れを拒みもせず、自分がその中にいることに甘んじていた者。この世界に住むにはふさわしくない、罪深く汚れた人間だ」 「でも、行くところがないんだそうだ。人間の世界でつらい思いをしてきたらしい」 「この者が人間界でのことをすべて忘れてもいいというのなら、ここにいてもいいが……人間界の汚れを持ち込まれるよりは、いっそ消してしまった方がいいかもしれぬ」 「瞬を消すのはやめてくれ! ちゃんと俺が面倒を見るから! 絶対に この世界に苦しみや悲しみは持ち込ませないから!」 以前この無憂の苑に、怪我を負い飢えて凶暴になった獣が どこからか迷い込んできたことがあった。 血の匂いを振りまき花園の中をのたうちまわる手負いの獣を、彼女は眉をひそめながら一瞬で消し去ってしまった。 その時のことを思い出し、俺は必死に彼女に懇願した。 あの時は、この苑の平穏を乱す獣が消えたことに、俺は安堵した。 だが瞬は、あんな気の狂った獣とは全然違う生き物だ。 「この子が気に入ったのか?」 俺が瞬を守ろうとするのが、彼女は気に入らなかったらしい。 身体を小さく丸めて眠っている瞬の顔を、彼女は不愉快そうに見おろした。 瞬は あの血走った目をした獣とは違うんだということに、彼女が気付いてくれればいいと、俺は思った。 「瞬は花に似ている」 「いつかは枯れる人間界の花だ」 俺が忘れようとしていたことを、彼女が俺に思い出させる。 瞬のこの花のような姿がいつか失われるなんて、そんな理不尽な話を俺は聞きたくなかった。 「困った子だね……」 彼女の話に怒りを覚えて唇を噛みしめた俺を見て、彼女が溜め息をつく。 俺の駄々に折れたように、彼女は微かに頷いた。 「……では、気をおつけ。この者が持つ人の世の汚れや罪に触れて、おまえまでが堕落することのないように」 「大丈夫だ! 瞬はこんなに綺麗だから」 不承不承でも、瞬をこの世界にとどめ置く許可を得て、俺は胸が弾んだ。 そう、彼女は心配する必要なんかなかったんだ。 瞬は花のように綺麗で、仕草も優しい。 表情は穏やかで、時々 人間界で経験してきたつらいことを思い出すのか、ひどく悲しそうな目をして俺を見ることはあったが、それを言葉にすることはなかった。 そもそも瞬は、激した言葉を口にすることがなかった。 眩しく懐かしいものを見るような目で、いつも俺を見ていた。 瞬が汚れた人間だと思うことは、俺にはどうしてもできなかった。 彼女だって判断を誤ることはあるだろうと、俺は思った。 俺は瞬と一緒にいることが楽しくてならなかったし、それは瞬も同じだったと思う。 この苑で時を過ごすにつれて、瞬の瞳は最初に会った時よりずっと明るく輝くようになっていったから。 |