瞬と共に日を過ごしているうちに、俺は、この無憂の楽園が いかに美しく平和で変化のない場所――言ってみれば退屈な場所――なのかということを思い知ることになった。
そして、瞬がいた人間の世界が いかに醜悪で矛盾に満ち、そこに生きる者たちの心身を抑圧し、だが変化に富んだ世界であるのかということを。

どちらがいいのかと問われれば、俺はどうしても無憂の苑を選ばないわけにはいかなかったが。
俺が生きている国は、確かに変化に乏しく退屈な場所だったが、今はここには瞬がいる。
気が向いた時にだけ ふいに陽炎のように現われるこの世界の女王とは異なり、瞬はいつも俺の側にいてくれた。

ある日――この無憂の苑でいちばん白い花が咲いている場所に二人で出掛けていき、この苑の花は決して枯れないんだということを瞬に教えてやっていた時、ふいに瞬が俺に尋ねてきた。
「氷河、キスしてもいい?」
「キス? 何だ、それは」

白い花の群れを見詰めていた瞬の口から急に知らない言葉が出てきたので、俺は僅かに意識を緊張させた。
俺が知らないということは、つまりそれはこの苑には存在せず、人間の世界にだけあるもの――ということになる。
俺は、それはよくないことなのではないかと懸念したんだ――少しだけ。
少しだけだ。
瞬が“よくないこと”を俺に求めるなんて考えられなかった――考えたくなかったから。

「こうするの」
瞬が俺の背に腕をまわし、そっと俺を包むようにして、その唇を俺の唇に重ねてきた。
やわらかいと思っているうちに、瞬の舌先が俺の口腔に入り込んできて、俺の舌をつつく。
妙な感覚だ――とは思ったが、俺の五感と意識は、それを“よくないこと”と断じることはしなかった。

「くすぐったいな」
俺が正直にキスとやらへの感想を告げると、瞬は少し気落ちしたような顔になった。
「いや?」
「そんなことはない。だが、これは何のためにすることなんだ?」
「好きだっていう気持ちを伝えるため」

瞬の答えに、俺は我知らず眉をひそめてしまっていた。
だってそうだろう。
唇や舌を触れ合わせることくらいで気持ちが伝わるのなら、この世界には――人間の世界でも――言葉は不要なものだということになる。
「これで……そんな気持ちが伝わるのか?」
「伝わらなかった?」

瞬が悲しそうに言うんで、俺は困ってしまった。
嫌じゃなかったが、本当にくすぐったいだけだったんだ。
だが、それを正直に言ったら、瞬は傷付いてしまうかもしれない。
かといって、この苑で嘘をつくことは決して許されないこと。
嘘をつくということは真実の心を殺すということで、それはこの国では決してしてはならぬことだと、俺は彼女に厳しく言われていた。
結局俺は、瞬に嘘をつかないために、逆に問い返すことをしたんだ。

「瞬は俺が好きなのか」
俺にそう尋ねられた瞬は、花が風に揺れるような仕草で小さく俺に頷いた。
「氷河は、僕に優しくしてくれた。行くところのない僕に、ここにいてもいいって言ってくれた」
「それくらいのことで――。だいいち、おまえがここにいることを許してくれたのは、俺じゃなくて――」
あの人だ。この世界の女王。

「でも、嬉しかった」
「そうか……」
人間の世界というのは、苦しみと悲しみに満ち、そこに住む者たちは互いに傷付け合い憎しみ合っている殺伐としたところ。
瞬はその世界で誰かに優しくされたことがなかったのかもしれない。
瞬は人間よりも花に近いから、きっと人間たちの世界では つらい目にばかり合ってきたんだろう。
ひどい話だ。
俺は、瞬がずっとここにいればいいのにと思った。
そして、俺が瞬を好きでいる気持ちが伝わるようにと願いながら、瞬の唇にキスをした。






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