「瞬はいつまでもここにいるんだろう?」
この世界を支配する女王より、俺はむしろ瞬の方を恐れていた。
この国の支配者は俺の望むことを妨げ拒むことはしないだろうが、瞬は自分がどこで生きるのかを自分の意思で決めることのできる“人間”だったから。
瞬のその自由な意思を恐れながら、俺の心の中にはどこかで たかをくくっているところがあったかもしれない。
この無憂の苑の外は苦しみと悲しみと死が横溢する地獄。
そんなところに瞬が戻りたがるはずがない――と。

俺の言葉に、瞬はすぐに答えを返してはくれなかった。
俺の望む答えを返してもくれなかった。
俺が尋ねたことには答えず、代わりに瞬は、小さな声で、
「僕は、僕の大切な人を捜しにきたの」
と言った。
「瞬の――大切な人?」
「死ぬまで一緒にいようって約束した人」

瞬のその答えに、俺は愕然とした。
瞬の大切な人。
それは誰だ。
瞬の心の中には、俺以外の誰かがいるというのか?

『死ぬまで一緒にいようって約束した人』――と瞬は言った。
人間はいつかは死ぬものだ。
瞬が、俺の知らない何者かと交した約束は、生きている間だけの儚く短い約束にすぎない。
それでも、いつかは死んでしまう人間にとって、それは永遠の約束だろう。
そんな約束を交した人間が、瞬にはいるというのか――?

「村のみんなは、彼は死んだものだと思えって言ったけど、でも、僕は諦めきれなかった。僕たちの約束は、そんな簡単に消えてしまうものじゃなかったから。少なくとも僕は――そう信じていたから」
「……」
瞬がここにいるということは、瞬は瞬の大切な人を探すことを諦めたということなのか?
それとも、瞬はいずれこの苑を出ていくつもりでいるのか?
「おまえは俺の側に――ずっと俺の側に――」
いてくれるんじゃなかったのか?

「僕は人間だから……人間の世界で生きていくしかないの。彼と二人で村に戻ることは諦めたけど、僕は僕の世界に帰らなくちゃ。ここにいると、僕は悲しいばかりだ……」
「人間の世界に帰る? ここにいると悲しい――?」
なぜだ。
瞬は何を言っている。
ここには俺がいるのに。
瞬は毎日俺と一緒にいられることが嬉しいと言っていたじゃないか。

あれは嘘だったのか?
この無憂の苑で、瞬はいつも、会いたい人に会えないことを悲しみ、俺に嘘をつき、死すべき人の世界に帰ることをずっと考えていたのか?
この世界の禁忌をことごとく犯し破っていたのか?
だとしたら――だとしたら、彼女が瞬をこの世界から追いやろうとするのは当然だ。

「そう。この者はこの世界に住むにふさわしくない者だ」
突然彼女が、陽炎のように俺と瞬の前に姿を現わす。
瞬は彼女に会うのは、これが初めてだったろう。
瞬は――この世界の禁忌を犯し続けていた瞬は――なぜかひどく悲しげな目をして、彼女を見やった。
この世界の支配者を恐れるというより挑むような、それでいて自分の無力を嘆いているような、そんな眼差しを、瞬は彼女に投げかけた。

「人の世に帰るがよい。そなたを手に入れ損ねて機嫌を悪くした あさましい領主が、そなたの村の者たちを痛めつけている」
「村のみんなを……?」
「そう。あの領主は、そなたが死んだのなら墓はどこだと村の者たちを問い詰めたのだ。村の者たちはそこまで用意周到ではなかったからな。村人たちがおまえを村のどこかに隠しているのだと決めつけて、あの男は己れの部下たちに、草の根を分けてもそなたを探し出すように命じた。あの男の部下たちに荒らされて、そなたのいた村は、村人たちの家も畑も滅茶苦茶だ。人間というものは、つくづく欲深で見苦しい」

「あ……」
瞬が苦しげに首を横に振る。
なぜ瞬にそんなことを知らせるのだと、俺は彼女に腹立ちを覚えた。
「瞬以外の奴なんてどうなったって瞬には関係のないことだろう! 瞬はずっとここにいればいいんだ!」
俺が噛みつくように彼女を非難すると、瞬は信じられないものを見るような目を俺に向けてきた。
「僕のせいで苦しめられている人たちのことを関係ないだなんて……。氷河は本当に もう人間ではないものになってしまったの……」
瞬の瞳が涙で潤み始める。
瞬はいったいなぜ、何のために泣いているんだ。

「人間の世界は汚れている。苦しみと悲しみと死であふれている。そんなところに戻って何が楽しいんだ!」
「氷河は、ここにいて楽しい?」
「つらい思いはしない」
そうだ。
ここにいれば――ここにいれば、瞬も俺も、苦しみや悲しみを味わうことはない。
ここにいれば、“人間”でも苦しみを知らないまま生きていられる。

「ここにいろ。その領主というのは、おまえから自由を奪おうとしているんだろう! そんな理不尽な真似をする奴のところに行ったら、おまえは何をされるかわかったものじゃな――」
瞬の考えを変えようとして必死に訴えていた俺は、その時になって初めて、そのあさましい領主の異常なまでの瞬への執念の理由に気付いた。

「その領主は、俺と同じように、おまえに激情を静めてもらおうとしているのか」
「……それが目的みたい」
「なら、なおさら! おまえをあんなふうに泣かせていいのは俺だけだ!」
あさましい男の考えが理解できることが不愉快で、俺の声は苛立ちを増していた。
瞬が、そんな俺に力なく首を横に振る。
「僕もそう思っていたけど……氷河は、この世界から出たくはないんでしょう?」
「……」
出たくないんじゃない。
出るわけにはいかないんだ。

瞬はまるですべてを諦めたように、すべてを諦め許したように、答えに詰まった俺を見詰め、そして言った。
「いいんだ、もう。領主様が僕に目をとめたのは ただの気まぐれで、あの方は僕を好きなわけでも何でもないから――すぐに僕に飽きると思う。領主様を氷河だと思って、しばらく耐えればいいだけのことだよ。それでみんなを苦しめずに済むのなら……」
瞬がその瞳から涙の雫を零す。
嬉しくて泣いているんじゃないことは、俺にもわかった。

それは瞬らしく健気な言葉のようで、その実、あまりにも瞬らしくない言葉だった。
絶望が瞬を捨て鉢にしている――そんな言葉。
自分が幸福になれないとわかっている世界で自分の心を殺すことを決意し、その死がせめて自分以外の者たちを救う力になればいいと、瞬は言っている。
瞬は無理に“死”に――自分の心の死に――希望を見い出そうとしているようだった。
瞬にそんな決意を強いる人間の世界など、滅んでしまえばいいのに!

「瞬……瞬……おまえは本当はここにいたいたんだろう? どんなに苦しくても、人間はいずれ死ぬ生き物だ。おまえが行かなくても、彼等の苦しみはいつかは終わる。だから、おまえは俺の側にいろ」
「僕のせいで つらい目に合っている人がいるのに、そんなことできないよ」
「なぜできないんだ!」

そうだ。
瞬はなぜそうすることができないんだ。
瞬が望みさえすれば、瞬は我が身の安全と心の安寧を手に入れることができる。
俺がそれを与える。
なのになぜ、瞬はそれを手に入れようとしないんだ――!

「なぜできないんだ……」
「なぜだろうね……」
瞬は独り言を呟くように、そう言った。
悲しげに俺を見詰めて、そう言った。
「きっと、氷河がこの世界を出られないのと同じ。人には、その人が生きていくべき世界っていうものがあるんだと思う」

瞬は――瞬はもしかしたら、自分の言葉が俺によって否定されるのを望んでいたのかもしれない。
瞬がここにとどまるのではなく、俺が瞬と共に行くと言うのを待っていたのかもしれない。
だが、俺は、瞬が望む通りにはできなかった。
俺は、この無憂の苑を出ることはできない。

瞬は、そして、結局諦めた――俺と共に生きることを諦めてしまった――らしい。
涙をためた瞳で無理に微笑み、
「氷河のお母さん・・・・……魔性のように美しい人だね」
瞬は、噛みしめるようにそう言った。
いったい瞬はどういうつもりでそんなことを言ったのか――。






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