「氷河、さようなら」
そうして瞬は、俺に背を向けた。
瞬の前に、無憂の苑の出口が現れる。
その向こうにあるのは、苦しみと悲しみと逃れられない死のある人間の世界だ。
この苑を、俺の許を去ろうとしている瞬の肩はあまりに細く、力なく、頼りなく――俺は、この世界の女王に向かって悲鳴のように懇願していた。

「瞬をここから出すなっ! 瞬を引きとめてくれっ!」
「汚れを負った者はこの世界に長くとどまることはできない。あの者はここを出るしかないのだ」
「瞬は汚れてなどいないっ!」
なぜ彼女はそれがわからないんだ。
瞬より美しいものは、この無憂の苑には ない。
瞬はこの無憂の苑に咲くどんな花よりも清らかで綺麗だ。
そんな考えるまでもないこと―― 自明のことが、なぜ彼女にはわからないんだ!

俺の悲鳴が聞こえていなかったはずはないのに、瞬の姿は無憂の苑から消えてしまった。
憂いのない至福の苑にいるのは、俺と、この世界の女王と、枯れることを知らない花たちだけになった。
俺の胸の中に、底が見えないほど深い虚無が生まれる。
彼女は、花園の中で呆然と立ち尽くしている俺を慰めるように、珍しく優しい声を俺にかけてきた。

「おまえはここにおいで。ここにいれば、苦しいことも悲しいことも知らずにいられる」
「苦しいじゃないかっ」
瞬が、俺の許を去ったことが、俺はこんなに苦しい。
こんなに悲しく、そして寂しい。
ここが無憂の苑だなんて嘘だ。
瞬がいない場所に幸福などあるはずがない。

「忘れなさい。おまえはここに残ることを自分で決めたのだ」
「……」
冷たく哀れな無憂の苑の女王。
瞬の美しさが見えない女王――。

「そうしたくて、ここに残ったわけじゃない……」
今となっては瞬に似ているとも思えない花園の花たちに向かって、俺は小さく呟いた。
死なない花は、瞬のように美しくはない。
おそらくこの花たちは、この世界の女王がそうであるように、俺の心をわかってくれない。
俺は、この命のない花しかない苑に、残りたくて残ったんじゃない。
そうしなければならないから残ったんだ。

――瞬もそうだったんだろうか。
幸せがない場所とわかっているのに、戻らなければならない・・・・から、瞬は戻っていったのか。
待っているのは苦しみと悲しみと死だけ。
それがわかっていながら。
幸福になれないことを望んでいるわけではないのに。

「瞬……瞬……」
瞬がいなくなってしまった無憂の苑で、俺はいつまでも苦しみ悲しみ続けた。
苦しくて悲しくてならなかった。
この苑は、今は悲しみと苦しみに満ちている。
悲しみと苦しみだけが満ちている。
瞬のいない花園は、俺にとっては呪われた場所でしかなかった。






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