そうだ。俺は、乗り越えることができたはずだ。 瞬のこの瞳が俺を映していてくれさえすれば。 なのに なぜ俺はあの時、瞬のこの瞳より孤独な女性の言葉に惹かれたのか、今となってはそれが不思議でならない。 俺は、その答えを求めて無憂の苑の女王の上に視線を巡らせた。 そして、そこに、傷付いた“母”なる人の瞳を見い出し――俺は、あの時の自分の心を明瞭に思い出した。 彼女の瞳は、俺の目に酷似していた。 つまり――そういうこと。 俺は、孤独な女王の姿に、俺自身の姿を重ね見ていた。 俺は、俺と同じように孤独な女王を哀れむつもりで、その実、俺自身を哀れんでいたんだ。 「人はいつかどんな悲しみも乗り越える。それがわかっていたのに――いや、わからなかったから、私は逃げることしかできなかった――」 彼女が、そんな俺を見詰め、呟くように言う。 俺はその時既に、彼女とは違う生き方を選ぼうとしていた。 彼女に心を残しながら、彼女とは違うものになろうとしていた。 彼女にはそれがわかったんだろう。 苛立たしげに、彼女は俺に言った。 「出ていけ! ここを出れば、おまえはすべてを思い出す」 「だが、そうしたら、あなたは、この苑で一人きりになってしまう――」 ここは永遠に美しく、死もない世界だが、物言わぬ花しかない世界だ。 そんなところに彼女をたった一人残していくわけにはいかない。 “母”は“子”がいて初めて、母たりえるものだろう。 「そんなことは考えなくてもよいのだ。おまえは自分のことだけを考えていればいい。人間とはそういうものなのだろう?」 「俺は……人間だ。瞬と同じ人間。だが、人間はあなたが考えているようなものじゃない。人の悲しみや苦しみを我がことのように感じることもできる」 「あの おぞましい領主のような人間もいる」 「でも、すべての人間がそうじゃない」 「よい。私はまた、悲しみに耐え切れず、すべてを忘れたがっている者を この苑に連れてくるから。そういう弱い人間はいくらでもいる。私は一人になどならない」 彼女の言葉が事実なのなら、この苑は だがそうではない。 人間は本当は想像以上に強いものたちなんだ。 彼等は、時と知恵の力を借りて、傷付いた自らの心を癒し慰め、悲しみを他の喜びで相殺し、苦しみを別の喜びに代え、その生を貫こうとする。 なにより彼等の愛する人と彼等を愛してくれる人の存在に支えられて。 「あなたも人間……ですよね? 僕たちと同じように心を持った――。僕たちと一緒にこの国を出ませんか。氷河をずっと慰めてくれていた人だもの、僕――」 瞬は、俺だけでなく彼女をも救おうとしているようだった。 瞬らしい。 だが、彼女は首を横に振った。 それは彼女の最後の誇りの為せるわざだったのか――いや、そうではないだろう。 彼女は、俺と瞬のために、瞬が差し延べた手を拒んだんだ。 「私はもはやここを出ては生きていけないものになってしまった。よいのだ。行きなさい」 「行こう、瞬」 「でも……」 瞬は、自分だけが幸福になることに躊躇を覚える人間だ。 だが今はそれこそが――俺と瞬が彼女から離れ幸福になることだけが――彼女の望みなんだ。 後ろ髪引かれる思いで、俺は彼女に背を向けた。 俺は、彼女を好きだった。 冷たく厳しい彼女の心を作ったものが、あふれるほど豊かな――だが行き場を失った――強い激しい愛情だということがわかっていたから。 俺がそうだったように、彼女もそうなのだと感じていたから。 彼女が、俺のために、ここを出ていけと言ってくれていることはわかっていた。 彼女は俺たちの前に、人間界への出口――入り口を現わしてくれた。 俺のために。 俺を生かすために。 「氷河」 瞬の肩を抱き、これから自分が生きていくべき世界に向かって歩き出した俺に、彼女が祈るように切ない声で語りかけてくる。 「氷河。母親というものは、我が子の幸せだけを望むもの。我が子が生きて幸せでいてくれるのなら、自分の苦しみも喜びなのだ。おまえの母がおまえを恨んでいるなどとは考えぬ方がよい。母の愛を信じるなら、そのようなことは決して考えてはならぬ」 俺は後ろを振り向かずに頷いて、彼女の願いを胸に刻み込んだ。 そうして、俺は、彼女の国を出たんだ。 瞬と二人で。 |