人間の世界。 無憂の苑を出た俺の前に、いつかは枯れる花の咲く世界が広がった。 そこは、苦しみと悲しみに満ちている世界だ。 だが、人間が生きる世界にある苦しみも悲しみも――それは、愛と憎しみの間で揺れ動き変転する人の心が作り出すもの。 人間の世界は、そういう意味で、正しく“生者の世界”なんだ。 「氷河……。僕、一人で村に帰った時に、長老様に氷河のいる苑のことを話したの。無憂の国は、我が子を病で失った母親が悲しみのあまり作った国だと言われている――って長老様は言ってた。あまりに彼女の嘆きが深いので、記憶の神様が哀れんで――彼女は一人に見えたけど、本当は我が子を失ったすべての母親の悲しみが集まってできていて、だから無憂の国の女王は悲しいほどに美しい。事実かどうかはわからない伝説――伝説だって、長老様は言ってたけど……」 寂しい楽園に 孤独な女性を一人残してきた俺の傷心を気遣うように、瞬は小さな声で あの人が何者だったのかを、俺に教えてくれた。 「……そうか」 俺と同じように、何か大切なものを失った人なのだろうとは思っていた。 世界を呪い、神を恨み、己れを憎み――彼女には、死のない世界が必要だったんだ。 それでも大切なものを取り戻せないことが、徐々に彼女の心を凍りつかせていった。 それでも彼女は、俺にだけは優しかった。 彼女が作った彼女の世界のルールを、俺のためになら曲げてくれた。 駄々っ子にてこずる 平凡で幸福な母親のように。 母を失った子と、子を失った母。 俺たちは本当に、あの無憂の苑で“親子のようなもの”だったのかもしれない。 彼女が捨てざるを得なかった人間の世界。 そこは暖かく、眩しい光に満ちていた。 時に曇り、嵐に襲われ闇に閉ざされることもある世界。 ここで、俺は瞬と共に生きていく。 人間の世界に戻ってきた俺は、そこで瞬を強く抱きしめた。 「でも、あの人の中に氷河のお母さんの心はないよ。氷河はこうして生きているもの」 「ああ」 瞬の言う通り――そして、あの孤独な女性が言っていた通り――俺の母は真に幸福な者たちのいる苑にいるだろう。 俺の母を無憂の苑の女王とは別の母にしておくために、俺はこの世界で幸福にならなければならない。 せめて、いつもそう願い続けることだけは続けようと、俺は思った。 もう逃げることは考えない――忘れようとは思わない。 「おまえが好きだったから――俺は恋に夢中になって母を死なせてしまった自分が許せなかったんだ。すまない。おまえを悲しませるつもりはなかった。俺は弱い男だった」 俺の腕の中にある温もりに、俺は低い声で俺自身の犯した過ちを告解し、詫びた。 瞬が、俺の胸の中で、小さく幾度も首を横に振る。 「僕は……僕には、氷河を責める権利も許す権利もないよ。僕こそ――僕のせいで氷河のお母さんは死んでしまった。僕は、自分の犯した罪が恐ろしくて、氷河がいちばん苦しくて悲しかった時に、氷河を慰めてあげることもできなかった。恐かったから――恐くて、自分のことしか考えられなかったから……。ごめんなさい……」 俺は――俺たちは、自分たちの経験した悲しみと苦しみを、忘れようとしても忘れられないだろう。 たとえ忘れることができても、また新しい悲しみや苦しみに人は出合う。 ならば、人はそれを乗り越えるしかないのだ。 ただし、一人でなく誰かと。 「でも、今は――氷河と一緒だったら、僕はどんなつらいことだって乗り越えられるような気がするの」 「俺も……。それが彼女の望みだろう」 “彼女”――それが無憂の国の女王のことなのか俺の母のことなのか、自分で口にしておきながら、俺はわかっていなかった。 もしかしたら、それは、すべての母親のことだったかもしれない。 Fin.
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