美女ではない――男子だろう。 一瞬 判断に迷ったのだが、氷河はそういう結論に達した。 「遅れてごめんなさい。家を出る時、兄さんに捕まっちゃって」 そう告げる声も、男子のものか女子のものなのかの判断を迷うような声だったが、身に着けているものは歴とした男子の洋装。 肢体の細さも、痩せている少女のものではなく、成人していない少年のそれだった。 男子でも女子でも、その容姿は日本人としては最高の部類。 人類としても最高の部類に属すると認めないわけにはいかない姿をした、美女ではなく美少年。 「ほら、頼まれていた本だ」 自分のために買ったものではないことを誇示するためか、氷河の目の前で、紫龍は少々大袈裟な仕草で、話題の詩集をその美形に手渡した。 「ありがとう。兄さんがこんな本を読むのは惰弱だって言って、出入りの本屋さん経由だと手に入れられないの」 男子と結論づけたあとでも、どこの美少女かと疑わずにはいられない笑顔。 氷河は彼らしくなく、しばし ぽかんとして、紫龍の待ち人を眺めることになった。 とはいえ、彼を呆けさせたのは、突然目の前に出現した美形の稀有な姿より、むしろ、それが紫龍の知り合いだという事実の方だったろう。 理論だけで成立しているユークリッド幾何学の世界に、突然花が降ってきたような違和感異質感を、氷河は感じずにはいられなかったのである。 「『君と私と』を実践しているのは、俺じゃなく貴様か?」 「まさか。瞬はあの一輝の弟だ。たとえ妹でも恐くて手が出せん」 大学は違うが、硬派で知られている有名人の名を出されて、氷河は更に意外の念を大きくすることなった。 その有名人は、明治天皇に殉死した乃木希典陸軍大将に心酔し、彼が学長を務めていた学習院に入ったという硬派の代表と言われている男だった。 学習院を先年卒業し、過去には陸軍大将を務めたこともある現学習院学長・一戸兵衛の推薦で、陸軍省軍務局に鳴り物入りで入省していったエリート。 現在の学習院は、乃木が『遊惰の徒』と嘆いた軟派な文士たちによって構成されている白樺派の本拠地と成り果てているが、彼等と対極の位置にいる学生の代表として硬軟両派に一目置かれていた男である。 なぜ、その男の弟がこんな花のような風情をしているのかが、氷河にはどうしても得心できなかった。 「紫龍のお友だち? はじめまして」 紫龍より堅苦しい世界の住人を兄に持つ、見るからに柔和そうな少年が やわらかな笑みを氷河に向けてくる。 「こちらの毒舌批評家先生に、こんな本を読む奴の気が知れないと、散々言われていたところだ」 帝大のカント先生は、円卓の椅子の一つに腰をおろすよう瞬に促すと、わざとらしく弱りきった口調で有名人の弟に告げ口をした。 「……」 紫龍の紹介の仕方に、氷河は一応それなりの気まずさを覚えたのである。 相手は初対面、しかも、どうみても10代半ば。 議論をふっかけて意見の応酬を楽しめるような人間ではない。 さりとて、紫龍の手前もあり、氷河は、子供相手だからといって自らの意見をあっさり翻すわけにもいかなかった。 自分の好むものに否定的な意見を言われるくらいのことで他人が腹を立てようが落ち込もうが知ったことかと、ほとんど開き直って、氷河は彼の主張を続けた。 「これは佐藤の公開ラブレターのようなものだろう。露出趣味としか思えん。そして、そんなものを好んで読む人間は窃視趣味の持ち主だろう」 予想に反して、瞬と呼ばれたその少年が、氷河の言葉に気を悪くした様子もなく ゆっくりと頷く。 「詩人や小説家って、自分の心を切り売りする残酷な仕事に従事している人たちだもの。自分の醜い心や恋心は、普通の人は秘めていられるなら秘めていたいと願うものでしょうね。でも、詩人や小説家はあえて人前にそれをさらす。自分の心を血を吐く思いで作品にして、それを読んだ人たちからは愚かと馬鹿にされることも覚悟しなければならない。少し気の毒な気がします」 氷河の意見に同意する口調で、その実 瞬は彼に真っ向から異議を唱えていた。 売り言葉に買い言葉で、氷河の舌が滑らかになる。 「本当に愚かなんだから仕方がない。特に 詰まらない私小説や恋の詩なんぞを書きなぐっている輩は、自分の排泄物を社会に垂れ流しているようなものだ。傍迷惑だし品性下劣だ」 「でも、人は詰まらないことで悩むものだから……。そういう本が流布していたら、同じ悩みや苦しみに耐えている人の慰めになるかもしれないでしょう? 苦悩に耐えるための力を与えられることだってあるかもしれない」 「君も詰まらない恋に耐えている最中だから、こんなものに頼るというわけか」 「いえ。でも、恋の詩を読んでおけば、実際に恋をした時の参考になるかもしれないじゃないですか。文学の力って、そういうものじゃないのかな。恋に限らず、生きるための苦難や試練を乗り越えるための力や解決の糸口を与えてくれるもの」 「何の役にも立たないまま終わるかもしれないだろう。切ない恋に酔う機会がなければ、こんな詩を読んだ時間が無駄になる」 「え?」 佐藤の詩集を未読の瞬は、一瞬 自分が何を言われたのかがわからなかったらしい。 「そういう詩が載っているんだ。切ない恋に苦悩する男の詩」 説明不足の氷河に代わって、紫龍が氷河の言の補足を行ない、 「ああ」 その補足説明に頷いて、瞬が再度氷河に向き直る。 「役に立つことがなくてよかったと思えるのなら、それはそれでよしとするしかないでしょうね。兵法や戦争論なんて役に立たないまま終わるのがいちばんでしょう」 「君が不倫に憧れているのでないなら結構なことだ」 「ふりん……?」 またしても瞬がきょとんとする。 瞬のその様子を見た氷河は、瞬は この本を不倫の恋を詠った詩集ではなく、清らかな恋の詩を集めたものという認識で購読しようとしていたのかもしれないと思うことになった。 おそらく、そうなのだろう。 彼の目の前にいる少年は、人妻との恋など不潔と感じる年頃に見えた。 実際にそうなのかどうかは わからなかったが、瞬は微妙に話の方向を変えてきた。――氷河に向かってまっすぐに。 「あなたくらい綺麗な人だったら、たくさんの人を切ない恋に苦しめているでしょう。あなたに恋焦がれている人たちには、この詩集が必要なんですよ」 それまで瞬と氷河のやりとりを面白そうに聞いているばかりで、口を挟もうとしなかった紫龍が、ここで初めて瞬の見解に異議を唱えてくる。 明確な誤認は正さずにいられないのが、彼の性分だった。 「綺麗もここまでくると、普通の女学生ごときは気後れするのか、この男は最初から恋の対象外になるらしい」 紫龍の訂正文が、瞬には意外なものだったらしい。 瞬は驚いたように大きく瞳を見開いて、まじまじと氷河を見詰めた。 そして言った。 「僕が女の子だったら夢中になると思うけど」 「この顔にか?」 「寂しそうな目をしてるから」 「……」 答えになっていないようで、それは立派な答えだった。 つまり瞬は、同情や哀れみの心が恋の動機になり得ると 言っているのだ。 勝手な憶測で“寂しい男”にされてしまった氷河が、その綺麗な顔に むっとした表情を浮かべる。 「紫龍、この子供はどうにかならんのか。生意気が過ぎる」 「図星をさされたからといって取り乱すな」 紫龍はあくまでも瞬の味方であるらしい。 氷河が申し立てた苦情をあっさりと受け流し、彼は瞬のために助言を垂れた。 「本気で論争を始めると、とんでもない理屈を持ち出して論敵をやりこめようとする奴だから、この男をからかうのはほどほどにしておけ」 「負けず嫌いなの?」 「傍迷惑なほど」 「じゃあ、僕は“逃げるが勝ち”で。紫龍、ありがとう。この本のことは兄さんには内緒にしておいてね」 そう言って、瞬が掛けていた椅子から立ち上がる。 ここで瞬がこの場を去ることは それこそ卑怯な勝ち逃げだと責めたい気分になって、氷河は思わず腰を浮かしかけた。 が、瞬はどうやら本気でこのまま勝ち逃げを決め込むつもりらしい。 「さようなら、え……と」 瞬は氷河に向き直り、辞去の挨拶を告げるために、言葉にはせずに首をかしげることで氷河に名を尋ねてきた。 「氷河」 そういえば まだ名も名乗っていなかったと、求められたものを瞬に与えられてしまったのが運の尽き。 「さようなら、氷河さん」 辞去の挨拶を完成させると、瞬は素早く身を翻して二人の帝大生の前から姿を消していた。 二人の帝大生の一方は、その素早さに彼らしくなく思いきり呆けた顔を呈することになってしまったのである。 「何なんだ、あれは」 なんとか気を取り直し、氷河が通常レベルにまで 心身の緊張を取り戻すのに約2分。 「何だと言われても……まあ、ここはおまえの負けだな」 紫龍は、彼の学友に情け容赦なく敗北の判定を下した。 「生意気なのにも程がある。歳は」 「16になったかな」 「一輝の弟なら、学習院か」 「ああ、中等科に通っている」 問われたことに深い考えもなく答えてしまってから、氷河が他人に興味を持つなど珍しいこともあるものだと、紫龍は思ったのである。 |