宮内省が設置した官立学校である学習院の中等科・高等科は、その校舎を東京府下高田村に構えている。 平民を全く受け入れないわけではないが本来は皇族華族の教育のために開校された学府には、いわゆる良家の子弟が多く通っていた。 その校門を出たところで、瞬はその場に思いがけない人の姿を見い出すことになったのである。 昨日知り合ったばかりの、どう見ても異国人の姿をした帝大生。 が、人々の好奇の視線を浴びることには慣れているのか、衆目に全く動じた様子もなく、氷河は瞬だけに真正面から視線を投じている。 「氷河……さん?」 「氷河でいい。昨日の不倫詩集は読んだのか」 瞬の前に立ちふさがった氷河は、挨拶らしい挨拶もなくつっけんどんな声音で、瞬に尋ねてきた。 頭一つ分高いところにある氷河の青い瞳を見上げ、瞬が微笑しながら頷く。 「ええ。『水辺月夜の歌』は特に何度も」 瞬は昨夜、氷河がこきおろしていた詩はどの詩だったのだろうと、ある意味 うきうきしながら佐藤の詩集を読んだのである。 おそらくこれだろうと当たりをつけた瞬の判断は正鵠を射ていたらしい。 もともと愛想がいいとは言い難い顔に苦々しさを浮かべて、氷河は重ねて瞬に尋ねてきた。 「どう思った」 負けず嫌いの彼は、昨日勝ち逃げを決め込んだ卑怯者と文学論でも戦わせにきたのかと訝りつつ――だが、それを迷惑と思ったわけではない――瞬は、氷河に問われたことに答えを返したのである。 「卑しい人間として自分を落としておきながら、『あなたを恋する気持ちだけは清い』なんて、そんなこと言われた方は困るだろうなあ――って」 「存外妥当な判断力を持っているな」 氷河に褒められて(?)、瞬はつい吹き出してしまったのである。 瞬が氷河に返した返答は、言ってみれば彼に褒められるための感想だったのだ。 「僕がそう思ったわけじゃなくて、あなたならそう考えるんじゃないかと推理しただけ。当たりました?」 「……」 氷河がむっとした表情になる。 彼を本当に怒らせてしまいたくはなかったので、瞬は慌てて真顔になった。 「……君自身は」 氷河は、年下の少年の生意気振りに決して腹を立ててはいなかった。 快いと思っていたわけでもなかったが――氷河は実のところ、今現在 自分が不機嫌でいるのか上機嫌でいるのかの判断ができずにいたのである。 なぜ自分がここにいるのかさえ、我がことながら理解できずにいた。 自らの不可解な感情と行動の理由がわかるのではないかと期待して、彼は瞬に言葉を投げ続けていたのだ。 「『身をうたかたと思うとも、うたかたならじ 我が思い』でしたっけ? 我が身はすぐに消えてなくなる泡沫のようなもの、でもこの恋は永遠。そこまで思える恋を本当にしているのなら、恋をしている人間っていうのはとても幸せな人種だと、羨ましく思いましたけど」 「恋なんて錯覚だ」 「永遠に錯覚していられれば、永遠に幸せでいられるでしょう。氷河は幸せになりたくないの?」 自然な流れのようで、唐突極まりない質問が瞬の唇から飛び出てくる。 氷河は一瞬、言葉に詰まることになった。 瞬は論理的ではない。 その言葉の飛躍、発想の飛躍は、議論を戦わせる相手としては不向きだが、氷河はなぜか瞬との会話を打ち切りたいとは思わなかった。 「何が俺の幸せなのかわからない。おまえにはわかるのか」 『答えられるか、この問いに』という気持ちで、年下の少年に問い質す。 半ば挑むような気持ちで、氷河は瞬にその問いを問いかけたというのに、瞬はさほど熟考した様子もなく、その人類永遠の命題に答えてきた。 「自分自身が幸せになろうとすると、その人は絶対に幸せになれないだろうと、僕は思う。誰か大切な人を――肉親でも友人でも恋人でも、その人が幸せなら自分も幸せだと思える人がいれば、人は幸せになれるんじゃないかな。幸せだけは、他人に任せていいことだと思う。大切な人がいるって、それだけでとても幸せなことでしょう?」 「……」 やはり論理的ではない。 あえてそれを論理だというのなら、それは残酷この上ない理論。子供らしい無邪気な残酷さの上に成り立つ意見だと、氷河は思った。 その理屈でいえば、今現在 氷河は不幸を極めた人間だということになり――にも関わらず、氷河は今、自分が生きていることをさほど つらいとも悲しいとも感じていなかったのだ。 「俺には誰もいない」 「え」 「父は名前しか知らない他人のようなものだし、父の囲い者だった母は10年も前に死んだ。友人は……紫龍みたいな悪友しかいないしな」 「悪友でも 友だちなんでしょう?」 「俺が奴の幸福を願っても不幸を願っても無意味だと思うが。奴は俺の意思に関係なく、自分の考えで勝手に幸福にも不幸にもなるだろう」 なぜこんなことを話しているのかと自分自身を疑いながら、氷河はいかに自分が他人との関わり合いの薄い人間であるかということを瞬に訴えていた。 これまで自分の両親のことを人に語ったことはないし、そんなことを他人に知ってほしいと願ったこともないというのに。 昨日出会ったばかりの他人は、そんな氷河に、この2日の間に見たうちで最も真剣な眼差しを投じて、実に有難い助言を垂れてくれた。 「なら、やっぱり恋をするしかないんじゃないのかな?」 「相手がいない」 「恋は神様の采配に頼ってちゃだめなの。恋の相手は自分で見付けなきゃ」 「鵜の目鷹の目で恋の相手を必死に探して、そして、恋に落ちるのか」 「そうだよ。運命の恋が空から降ってくるものだと思っているのなら、それは大間違い。恋って、自分にとって素晴らしいと思える他人の魅力を見付けるってことでしょう。人を見詰めるところから始めなくちゃ」 どうせあなたは真摯に人を見詰めたこともないんでしょう? ――と、瞬は氷河を責めているのではないようだった。 それは無邪気な提案にすぎなかったのだろう。 だが、我が身も他人の身も その心も“うたかた”と思い、それ故に 自分自身を含んだすべての人間を真摯に見詰めたことのない氷河には、それは辛辣な非難になっていた。 「そうすると、人は誰にでも素敵なところがあって、この人だけって絞れなくなっちゃうけど」 氷河がしたことのない行為――できない行為――を、瞬は“誰にでも”実践しているらしい。 そして、すべての人を真摯に見詰めているせいで、瞬は恋をしたことがないらしかった。 「俺にも……」 『あるのか、“素敵なところ”は』と言葉を続けそうになって、氷河は慌ててその言葉を喉の奥に押しやったのである。 それでも、その衝動は氷河を強く捕えて離さなかった。 『俺にも、おまえの心に響く何かが備わっているのか』と、瞬に尋ねてみたいという衝動は。 だが、氷河は尋ねることができなかった。 そんなことを真顔で尋ねたなら、瞬は笑うに違いない――氷河はそう思わないわけにはいかなかったのだ。 瞬は笑うだろう。 笑って、“寂しい目をしている男”に、彼の“素敵なところ”を教えてくれるだろう。 だが、瞬にとって それは“誰にでも”備わっているもの、誰もが持っている要素に過ぎないのだ。 決して特別なことではない。 だからこそ――氷河は、その質問を気軽に瞬に投げかけることができなかったのである。 |